Incarnation of evil-3
「いやだー」と赤ん坊が言う。「またつれていかれちゃうー」
「一回も二回もおんなじだろ」と、空間に出来た穴の向こう側から声がする。聞き覚えのある声だ。
僕は河に飛び込んだ少年を思い出す。僕はもう、目の前の不幸をただ見つめるなんて絶対にいやだ。僕はあの赤ん坊を助ける。あの赤ん坊に罪はないんだ。罪深いのは、いつだって道徳や理屈や理論や建前や世間体で塗り固められた大人たちだ。「生活が大変ー。」「だって、あんな女別に好きじゃねーし」「皆堕ろしてるしょ」「レイプされて、孕まされたから」「子供を一人成人まで育てるのに、四千万円くらいかかるんだって」「今就職難だし」「一人で生きてくので精一杯」「結婚なんてつまんねえって」「虐待するくらいならねー。産まなきゃいいのにね」「一人だけ助けるなんてそんなの偽善だよ。世界には何万何百っていう困っている人たちが・・・」うるせー。そんなの知ったことか。そんな大人の諸事情知ったことか。裸の俺はそんな戯言聞かねえぞ。偽善上等。どうせ俺は一人しかいない。27万6352分の1上等。俺はそのたったの一つのために全力でやってやる。俺はそんな罪深い大人たちを代表して、ルカの赤ん坊を助ける。絶対に絶対に助ける。何故なら、赤ん坊は、あんなにちっちゃくて可愛いんだ。
そして、喋る赤ん坊が穴の中に連れ込まれる寸前、僕は走っていって赤ん坊をぎゅっと抱きしめ、ラミナリアで拡張された空間に出来た穴に一緒に入り込む。先にルカに会うはずだったのだが、まあいい。この穴の先には僕をこの世界に招いた張本人がいる。僕は今、そいつに感謝すらしている。穴の中に全身入り込み、赤ん坊を抱きかかえたままの僕がそこを通過すると、ラミナリアは再び湿気を失ってしぼんでいく。同時に、穴が閉じていく。花畑とベンチと風車が見えなくなる。僕は赤ん坊を抱きかかえたまま、草木が多い茂る森にいる。見覚えのある森だ。そして、僕はそいつを見つめる。僕をこの世界へ招いた張本人だ。そこには木村修がにやにや笑いながら立っている。木村修の右手に握られているのは、あの日僕が使った43MCバリソン/ボーイ。そして、左手にはピエトロ・ベレッタM92FS。
そして、これこそが神意だと僕は感じる。無力な木村修を殺すということは、すなわち無力な赤ん坊を殺す根源となった木村修と同じことをすることになってしまうのだ。彼を殺すべきではない、というのが、恐らくは神意だ。
あの時この男を殺さなかったのはやはり正解だったと僕は思う。そして木村修は僕をこの静止した世界へと招待し、そして純粋な悪の化身として僕の目の前に立っている。僕はにやりと笑う。
「やっぱりお前だったか」と僕は言う。
「わるものだ」と僕の腕の中の赤ん坊が言う。「おとーさんだ」
「バカ。お父さんは俺だろ」と僕は言う。
「バカはお前だバカ。そいつの父親は俺だよ」と木村修は言うが、僕は首を振って確かな声で反論する。「いいや。この子は俺の子だ。お前には親の資格はない」
「お前はやっぱりバカだよ」と木村修は言う。「大体よ、お前はここで何かを捨てなきゃならねーんだぜ。それを、ここに来てから大切なもん増やしてどうすんだよ」
僕は背筋がひやりとする。まさか、と僕は思う。まさかこの子を代償として差し出せというのか? 何か大切なものを手に入れるということは、それを失うかもしれない恐怖と戦うことだ。それと戦い、大切なものを見極め、全力でそれを守ることだ。