恋愛小説(2)-7
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落ち着きを取り戻しても千明の考えはまとまらないようで、あー、とか、うーとかうめきながら何かをずっと考えている。僕はというと何をどうすることもできず、ただ千明の隣に座り彼女の肩を抱いていた。いつかの公園でそうしたように。
「ちーくんは、私以外の人にちーくんて呼ばれて、どう思うん?」
ようやく開いた千明の口からは、そんな言葉が出て来た。その唇が小刻みに震えているのを僕は見た。見てはいけないようなものを見た気分に、僕はなった。
「別に、どうも思わないかな」
「違和感は、ないん?」
「違和感はある」
「でもイヤな感じじゃ、ないいやろ?」
千明の眼はまた泣き出しそうになっていた。
「イヤな感じはしないね」
「私はなんかいやや」
千明がそんなにもちーくんと言う呼び方にこだわりがあっただなんて、僕は知らなかった。思えば、僕が千明について知っている事と言えば、千明が僕のことを好きだってことぐらいだった。
「どうしてそんなに、ちーくんって呼び方にこだわるのさ?」
「ちーくんは、私が考えたちーくんやもん」
「いやそれはそうだけどさ。でも千明だって、中国のことを中華人民共和国なんて呼び方しないだろう?」
「……でもイヤなもんは嫌や。」
「わかった。それについてはもう僕はなにも言わない。でも千明、これは知っていてほしいな」
「うん?」
「たしかに葵ちゃんは僕のことをちーくんって呼ぶけれど、千明の呼ぶちーくんとは違う」
「どゆこと?」
「うんつまりね?葵ちゃんは千明のちーくんって呼び方を気に入って使っているけれど、千明には理由があるんだろう?」
「……うん」
「それがどんな理由だろうと、どんな変化をへてそれになったとしても、使う目的が違うのならそれは別のものだよ。たとえば武器は、使う人によって、暴力にもなるし身を守るものにもなる。それはわかる?」
「わかると思う」
「だから千明がちーくんって呼ぶ事を、僕は止めなかっただろ?まぁ僕自身それを気に入っているからもあるんだけど。それに、千明からよばれるちーくんと、葵ちゃんから呼ばれるちーくんは、僕にとっても感じ方はちがう」
「でも、イヤな感じはしいひんねやろ?」
「イヤな感じはしないけれど、だからといってとてもいい気持ちになるかと言われれば、そうでもない。あれは代名詞、葵ちゃんにとっては、先輩と仲良くなる為のとっかかりだからね。でも千明は違うだろう?」
「……うん」
「なら、それで僕はいいと思う。……でもまぁ、千明がそれでも保有権を主張するなら、僕の方から葵ちゃんに言っておくよ」
「……うん。考えてみる」
「うん、じゃあこの話はもうおしまい!大丈夫千明?」
僕はそういって立ち上がると千明に右手を差し出した。その右手をしっかりと掴んで千明は立ち上がると、いつもの様に笑った。
「……ちーくん!」
「ん?どうしたの?まだキツい?」
「おなかへった!!」
「……部屋に戻ったら、好きなもの沢山食べると良い」
「ホンマに?」
「うん、ホンマに」
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部屋に戻ると葵ちゃんが心配そうにこっちを向いていた。僕ができるだけさりげなくピースサインをつくると、安堵したような表情をみせた。
「おらおらぁ!どこいってたんだぁ!?お前らの番飛ばしちゃったぞぉ?」
木村さんがマイクに向かって大きな声を張り上げていた。他の新入生もいぶかしげに僕と千明を見ていた。
「すみません。トイレが込んでで。あぁ、僕の番は飛ばしてくれていいんで。というより飛ばし続けて下さい」
「アカンアカン!一回は唄わんと!」
「!?千明!?」
「あっ、木村さーん!私とちーくん、次歌いまーす!」
「ちょ、千明!?」
「ふっふっふ。その下手な歌声さらして恥をかくといいんや。私を泣かした罰やん?」
そうして、僕は最大のコンプレックスでもある歌唱力の低さを、新入生に早々に知られてしまったのだった。