27万6352分の1の価値-2
<愛してなかったの誰も>
ルカの言葉が耳元に蘇る。あの雨の晩。あの狂気の時間。彼女は、そう呟いた。ノイズ。あの日の事を思い出す時はいつもそうだ。その輪郭はぼやけている。時折映像が乱れる。音は切れ切れにしか聞こえない。雨音。キヤァハァハァ。ノイズ。頭痛。とりあぁぁえずぅ、殺せ。そぉいつぅが全ての引き金だ。そうでなくともぉぉ、そいつぅがじゅぅぅよぅなカギであることに変わりは無いぃぃぃ。
僕の手のひらには43MCバリソン/ボーイが握られている。視界がやけに歪んで見える。木村修の姿がぐにゃぐにゃと歪んで見える。僕はバタフライナイフの切っ先をまるでアメーバみたいにべたべたと光る彼の眼球に少しだけ突き刺す。彼は叫び声を上げるが、その声はまるで現実味の無い音に聞こえる。何かの楽器みたいな音にも聞こえる。何か命乞いのようなことも言っているような気がする。視覚と聴覚に異常があるな、と僕は頭の片隅で考える。頭痛のせいだ。頭が割れるように痛い。
<ねえ、羽をもいで>
耳のすぐ側からルカの声が聞こえたような気がして、僕はぎくりとしてバタフライナイフから手を離す。43MCバリソン/ボーイは足元に音も無く落ち、僕は額の汗を拭う。ふいに猫に羽をもいだトンボを食わせていた時のことを思い出し、木村修の姿がトンボと重なる。とすれば、僕はトンボの羽をもいでいた幼少期の僕自身であると同時に、彼を殺し尽くそうとするあの腹を空かせた猫の様でもある。僕は中絶されたルカの赤ん坊のことを思う。何の自由も選択権も無く、ただ成す術もなく奪い去られてしまった命のことを思う。そして今度は、その赤ん坊を羽をもがれたトンボに重ねている。頭の中で羽をもがれたトンボ=ルカの中絶した赤ん坊=目の前で耳をそぎ落とされた木村修、という構図になり、僕は混乱する。その一方で、トンボの羽をもいだ幼年期の僕=無力な赤ん坊を中絶する根源となった木村修=木にぐるぐる巻きにされ、なすすべもない木村修を殺そうとしている僕、という構図が浮かんでくる。
そして、これこそが神意だと僕は感じる。無力な木村修を殺すということは、すなわち無力な赤ん坊を殺す根源となった木村修と同じことをすることになってしまうのだ。彼を殺すべきではない、というのが、恐らくは神意だ。
僕はよろよろと足元に落ちていた43MCバリソン/ボーイを拾い上げ、木村修を木に縛り付けていた布テープと紐を切り裂く。そして耳をそぎ落としたときについた血液と肉の破片がこびりついた鋸タイプのブレードを装着したシステムナイフを拾い上げ、バタフライナイフと一緒に鞄の中へしまう。
「帰るわ。悪かったな」と僕は足元に落ちている自分の耳を名残惜しそうに見つめている木村修に言う。「一緒に車に乗って帰るか?」
木村修は心ここにあらずといった感じに首を振る。彼はまだ木に張り付いたままで、僕が切り込みを入れた布テープを引き剥がす元気がないのだろう。僕は頷き、彼の側を離れる。仮にこのまま木村修が山中で迷い、死んだところで、それは僕の知るところではない。それに、恐らく彼は生きてこの山を下りるだろう。そして生き続け、そのうちに僕に復讐しに来るかもしれない。それはそれで仕方が無い。それはもう、神意の先にあるものなのだ。
車までの道筋を歩きながらポケットに手を突っ込み、レンタカーのキーを弄びながら、僕はさてどこへ行こうかと思った。行くべき場所が思い浮かばなかった。