命萌ゆる、その瞬間を-4
巨大な総合病院の中を、足を引きずり、形振り構わず、ただひたすら突き進む俺を、誰もが振り返り、恐れをなしたような冷やかな眼差しで見ていた。
異色の存在として見られるのには慣れていたし、今更、俺には他人の目なんてどうでもよかった。
『教会が見える窓側の病室』を探し当てては、扉に掛けてあるネームプレートを、しらみ潰しに見て回る俺が、この迷宮する病院の中、一度も迷わない理由は、つい最近まで俺がここに居たから。
きっと俺が気が付かなかっただけで、俺とシュリはここで出会ったんだ。
そして、ガキみたいに『ヤダヤダ』と駄々をこね、終いには口をつぐんで心を閉ざして…そんな俺を、シュリはジッとどこかで見ていた。
そして、退院しても何一つ前に進まない。それどころか自暴自棄になって、抜け殻状態になっていた俺の前に現れた。
俺は、はぁ〜っと大きく息をついた。
『橘 朱璃』…陽の光で変色した古いネームプレート…それは、内科の一番隅の小さな個室の前にあった。
今度は思い切り息を吸う。
鼻腔から飛び込んできたのは、メントールのようなヒリヒリ感と、うがい薬のような消毒液の臭い。
俺の大嫌いな『病院の臭い』……
スライド式の扉の大きなもち手をしっかりと握り締める。
スルルと滑るように開く扉に、ガクガクで感覚の無い足が持っていかれそうになって、慌てて手を離すと、前のめりに部屋の中へと飛び込んでしまった。
咄嗟に掴んだベッド柵にもたれかかりながら、松葉杖を何処かに捨ててきた自分に気付く。
顔を上げると、硬く瞼を閉じたシュリの端正な顔が、思いの外すぐそこにあった。
顔を真っ赤にしながら、そっとその場を離れようと、身体を起こす。
「しゅう…ま…?」
あっ……振り返ると、さっきまで人形のように蒼い顔で横たわったままだった朱璃が、少し頬を染めて大きな双眸を更に見開き、俺を見つめていた。
微かな声音とは裏腹に、とても力強いその眼光に、声を失う。
「君があのベッドサイドで、こちらに背中を向けて一人ですすり泣いているのを何度も見たよ」
開け放たれたままの部屋の扉から見える廊下の大きな窓の方へ視線を移す朱璃。
つられて視線をやると、そこには以前、俺が入院していた病室があった。
「あの時からずっと思ってた。この足を君にあげることが出来るなら、俺は喜んで差し出そう。だって、俺はもう、自分の意思で自由に歩くことさえ許してもらえない。行きたい所だったら沢山あった。だけど、何処にも行けなかった。…だったら君にあげてしまったほうがどんなに嬉しいだろう。俺自身も、この脚も、言う事を聞いてくれないこの心臓だって…君が俺の代わりに色々な場所へ行く。そして何より、俺のこの脚が、体育館の光沢のある床の上で地から強く跳ね上がる。考えただけでドキドキするんだ…今もその気持ちは変わらない。俺はね、君が羨ましかった。自分を見失うほどに情熱を傾けられるものがあるなんて。どうしても失いたくないものがあるなんて……俺にはどっちも未知の世界だ。気が付いたら、この部屋だけが僕の世界だったからね。このベッドと、壁と、窓から見える風景…それが俺の全て。そして、その事に何の不満も疑問も浮かばなかった。そんな俺が、ここから君の事を窺い見るようになって『自分』意外の人間がこの世に存在することを初めて知った気がした。それは、儚くて今にも壊れてしまいそうで、それでいて、心の中には持て余すほどに燃え盛る炎を燻らせていて…手で触れただけで弾けてしまいそうな美しい硝子玉のようにも見えた。俺は、崩壊へと自分を追い込んでいく君を見ていて、思ったんだ。きっと俺なら君を助けてあげられるって。その為なら手段は選ばないつもりだった。それは、君の為だけじゃない。俺のため。このままこの白い世界の中で誰にも必要とされずに、誰の為にもならずに、誰にも知られずに散っていくなんてあまりにも情けないじゃないか。初めてそう思ったから。」
「朱璃……」
目の前に火花が散ってクラクラし、倒れてしまいそうな衝撃を感じた。
何も言えなかった。
自己嫌悪の真ん中にドスンと突き落とされた気がした。
自分のことばかり考えている自分がそこにいたからだ。
『ユズリハ』…新しい命の為に自分の命を譲って散っていく…お前はそんな事を考えていたのか。そんな風に命を賭けて、俺を救い出そうとしていたのか。
俺は朱璃の手を握り締めた。
「朱璃…抜け出さないか」