ふきつないちにち-2
樹海から百メートル位手前の開けた広場に車を停めたところで、隣の木村修は目を覚ました。辺りはもう道ですらない。一応は車で走ることが出来たが、こんなところを車で走る奴なんてそうそういないだろうというような、そんな場所。そんな場所に車が一台ポツリと止まっていて、彼は辺りをきょろきょろと見回し、寝ぼけた声でおいおい、ここどこだよと目をこすりながら呻く。
僕は質問には答えず、ドアを開けて運転席を降り、助手席側の後部座席に乗り込む。そして素早くトランクにおいてあった鞄の中から頑丈なナイロンの紐を取り出すと、それを木村修の首に巻きつけ、締め上げる。かはっ、と息を吐き出した木村修は反射的に自分の首へ手を当てる。紐は木村修の首にめり込んでいる。彼は何か言葉を発しようとしているように見えるが、喋ることはできない。僕はいっその事、このまま殺してしまおうかとも思うが、それはやめる。木村修が窒息死する前に紐から手を放し、緩める。そして、木村修が混乱し、呼吸を必死で整えている間に彼の腕を取り、後ろ側で両腕をしっかりと縛り付ける。口には布テープを貼り付け、そのまま頬と首の後ろまでぐるぐると二週させる。鼻呼吸が出来るよう、鼻腔が布テープで隠されていないかをちゃんと確認する。木村修の両腕もちゃんと固定されているか、紐は簡単にはずれないかを注意深く確認する。大丈夫だ、と僕は思うが、それでもまだ心配だったので、紐の上からさらに布テープで何重かに巻きつけてみる。何しろ、こんな経験は初めてだ。僕の鼓動は高鳴っていて、額には汗がにじんでいた。そこまでを無事にこなすと僕は息を一つ吐く。落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。まだまだ始まったばかりだ。これまでは予想以上に上手くいった。木村修が眠っていてくれたおかげで、国道を外れたことにも気づかれなかったし、だから、近道を聞いたんだよという下手な言い訳も披露せずにすんだ。
僕は鞄を持って後部座席を離れる。鞄の中から包丁を一本とり、助手席のドアを開ける。「これが見える?」僕は木村修に包丁を見せる。「これからあんたがおかしな行動をしようとしたら、俺はこれであんたを殺す。おかしな真似は絶対にするなよ。いいか? 分かったら車を降りな」
怯える木村修を助手席のシートから引き剥がし立たせ、背中の辺りに包丁の切っ先を当て、「向こうへ」と林の方角へ歩くよう指示する。僕と木村修は二人で山中の道なき道を歩き出す。
辺りには薄く霧が出ていた。それほど深い霧ではないから、三十メートルくらい先までならうっすらと見渡せる。数日前の雨の影響で腰の高さまで伸びた多い茂る草たちは湿っており、徐々に僕のジーンズを濡らしていく。足元に敷き詰められた枯葉の絨毯の下には無数の水溜りがあって、それがコンバースのスニーカーを濡らす。じめじめとした気持ちの悪い場所だ。
車を離れてから五分ほど歩いていくと、林に入り、そこの部分はそれほど草木は伸びていない。養分のほとんどが立ちそびえる樹木に奪われてしまうせいだろう。そこで止まって、と僕は先導する木村修に言う。包丁の切っ先を向けながら、適当な木にもたれかかるようにさせ、木村修を木に縛り付ける。腰と肩と足首の辺りの三箇所を、持ってきた紐で何重にもくくりつけた。そこまでを終えると、僕は随分と疲れていた。肩で息をし、額からは汗が流れ落ち、パタゴニアのウィンドブレーカーの中に着たTシャツは汗で背中に張り付いている。汗と、辺りの湿気がそうさせているのだ。
僕は鞄を足元に置き、サイドポケットの中から煙草とライターを取り出し、火をつける。煙草を吸いながら木村修の姿をじっと見つめる。木村修の眼球は落ち着き無くきょろきょろと辺りを見回していた。何かを探している風ではなく、唐突に連れ去られた樹海世界を上手く認識できないといった風だった。一体どこでどう間違えて、俺は今こんなとこにいるんだ、とでも言うような。そして、木村修の視線と僕の視線が合う。僕は煙草を吸いながら、木村修の瞳を見つめる。怯えよりも、混乱のほうが色濃く出ている。口元の布テープが僅かに動いている。何かを喋ろうとしているんだろう。
僕は黙って煙草を吸っている。この煙草を吸い終えたら、僕は殺人者への階段を一歩上がることになる。