ルカ-5
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開いた窓から、心地いい春の風が入り込んでくる。それはルカのいるベッドの真上にあるピンク色のカーテンを揺らし、キッチンに立つ僕の辺りで勢いをなくす。
キッチンの足元にCDラジカセを置き、冷蔵庫のコンセントの下に空きがあったので、そこにラジカセのコンセントを挿し、電源を入れ、psysalia psysalis psycheのCDを流す。[Butch & The sundance Kid]の気だるい歌い方のメインボーカルのパートを真似て歌いながら、蛇口をひねる。穏やかな昼下がりに、大好きな女の子の部屋で洗い物をするのは、それほど悪くない気分だ。「一緒に洗おう」「ありがとう、じゃあ、俺が洗ったやつを渡すから、ルカはタオルでそれを拭いて」「りょーかい」なんて会話を妄想してみるけれど、相変わらず昨日と同じ姿のままのルカはベッドの上。僕はちらりとルカの方へ目をやるが、一向に目を覚ます気配も無いので、僕は諦めて一人ぼっちで洗い物を開始する。大量に溜まっていたせいで、なかなか骨の折れる作業だった。最初は歌を歌いながら優雅にやっていたが、なかなか汚れの落ちない、カピカピのトマト・ケチャップに苛立ち、茶碗のカチカチのご飯粒に苛立ち、とやっているうちにやがて無口でもくもくと洗い続け、最後の皿の水のしずくをタオルで拭き終えたときには、始めてから一時間も経っていた。
簡単にガス栓の周りや、コンロの周りを拭き、流し台もクレンザーで洗い、随分と綺麗になったキッチンでそのまま一服をし、二缶目のビールを半分ほど飲む。ルカのいる部屋から入り込んでくる心地のいい風を背中に感じながら、先ほど見かけた昆虫を探すが、そいつはもうどこかへ行ってしまったか、それとも何かの物陰に隠れているのか、姿は見えなかった。昆虫を探しながら、僕は無意識に幼い頃の記憶を蘇らせ、トンボと猫について考えめぐらせるが、時計の針が十二時を過ぎそうだということに気がついて、それもやめてしまう。そろそろお昼だ。
ルカのいるベッドに腰かけ、「今日は何を食べる?」と囁くように訊くが、ルカは僕の質問には答えない。水の流す音も、ラジカセの音楽も止まってしまうと、随分と静かな部屋だ。僕はもう、何をするでもなくこの部屋に三日もいる。肌寒くなってきたので、僕は窓を閉める。そうすると、この部屋がまるで現実感の無い場所に感じる。
「今日も、目を覚まさないね?」僕は囁き、ルカにくちづけをする。唇と唇が触れるだけの、短いキス。ルカの唇はカラカラに乾燥している。そっと、切り傷だらけのルカの手首を取り、そこに触れるが、脈はない。呼吸もしていない。「ルカ、死んでいるの?」と僕はまた呟くが、言うまでもなく、彼女は死んでいる。
ルカが死んだことには、三日前から気づいていた。その事実を受け入れるまでに七十二時間くらい時間が必要だっただけだ。僕はルカの事が大好きだった。愛していたといっても良い。僕がもっと早くに。例えば、北海道滝川市の短期大学に通っていた頃に、あるいは、一緒に就職先の北海道帯広市へやって来た時に。そのことを伝えていれば、何かは変わっただろうか。ルカは死なずに済んだだろうか。
でも、と僕は思う。僕の知るこの世界では、時の流れを変えることは出来ない。時を越えることも出来なければ、遡ることも出来ない。起こったことは、全て起こったことであり、それはもう受け入れるほかないのだ。僕は、それがどんなに受け入れがたいことであっても、七十二時間なんかじゃ全然足りなくても、飲み込むしかない。深呼吸をして、僕は呟く。「いいか? これは現実で、ここは現実世界だ。諦めろ。受け入れろ。ルカは死んだ」