完・嘆息の時-5
「あの夜、君から結婚したってことと子供がいるってことを聞いた時さ、俺、正直言って物凄くショックを受けたんだ。目の前が真っ暗になってさ、倒れる寸前のところで必死に気を奮い起こした。でも君に逢えたことが、それだけが心から嬉しかったんだ。結婚していようが子供がいようが、本当にそれは素直な気持ちだよ。それがまたこうやって君と逢っている。これって運命なんだとか、そんなベタなことは思わない。でも、夢心地ってのをいま実感している」
見つめる眼にグッと力を込め、神山がおもむろに起ち上がった。そして、ゆっくりと前へ進み、硬い表情を見せている愛璃の隣へ腰をおろした。
「今日、君がどんな気持ちでここまで来てくれたのか……とてもじゃないが怖くて考えられない。ただ、ただ俺は自分の気持ちを伝えたかった、それだけさ。だから君の家庭を掻き回すつもりも、ましてや壊すつもりもない」
「か、神山くん……わたし……」
「だけど……やっぱりこうやって君に逢ってしまうと心が乱れてしまう。一方的なことをするつもりはない。いや、さっきまでは、君に逢う前まではそう思ってたんだ。でもさ、こうして君に逢った瞬間、自分でも抑え切れないほど激しく、激しく君を欲してしまっている。どんなに堪えようとしても駄目なんだ。君を好きだという想いが胸から溢れ出し、それが勝手に口をついてしまう」
神山の意外な一面に、愛璃の心も激しく動いた。
神山という男は、恋路だろうが何だろうが何事にも決して感情を公にしない、そんなクールな性格だと決め込んでいた。
十五歳の夏、顔を真っ赤にしながらラブレターを渡したときも、神山のほうは涼しい表情をしていた。
同窓会のときだってそうだった。
ショックを受けたなんて言ったけど、実際その顔からは動揺なんて微塵にも感じとることが出来なかった。
「か、神山くん……あっ!?」
おもむろに顔を向けてきた愛璃を、神山がギュウッと抱きすくめる。
深くきつく抱かれ、愛璃は身動きがとれずに思わず小さな吐息を漏らした。
「……俺は、十年前に言えなかった言葉をようやく君に告げることができた。正直、胸の大きなつかえが取れた気分だ。でもさ、でも……」
耳元で言われ、反射的にビクッと上背を振るわせる愛璃。
セックスを意識したわけじゃない。
神山の野太い低音の声が、耳の表皮にゾクゾクするような振動を与えながら入り込んでくるのだ。
ギュッと唇を噛んで堪えようとするも、そこが弱い部分だけに堪え切れようもない。
「君の肌に触れてしまったいま、俺の浅ましい思いがいっそう激しさを増してしまった。無茶なお願いだと重々承知の上で……滝川……いや、愛璃……今日だけ、今日だけでいい、今日だけあの頃に戻れないかな……」
「ん……っや!」
耳への遠隔愛撫に、愛璃はとうとう小声を上げてしまった。同時に、肩をビクンッと跳ねながら無意識に神山の髪へと鼻先を埋めた。
「あ、愛璃―――ッ?」
神山の切れ長の眼がパッと大きく開く。
僅かではあるが、髪と首筋に伝わってきた愛璃の吐息。愛璃の悩ましい反応は、情欲の膨らみきった神山に大きな誤解を与えた。
「ああ……愛璃……愛璃……」
耳元で名を呟きながら、両手で愛おしそうに華奢な背中を撫でまわす。
その手の行動範囲はすぐに広がっていき、優しい手付きながらも欲情を感じさせる動きで肩から腰までを何度も往復した。