『満月の夜の分かれ道』-8
「ごめん…俺中に…」
スカートのファスナーを上げる千代を見ながら知秀は申し訳なさそうに言った。
「ううん、いいの。今日大丈夫な日だから」
千代は笑顔を見せる。
外に出て腕時計を見ると一時間も経っていなかった。
「ね…知秀…」
「ん?」
先に外に出て月を見ていた知秀が振り返る。
千代はぎゅっと手を握り締め、思い切って言った。
「私達もう戻れないかな…?」
一瞬の沈黙の後、ひゅう、と二人の間を風が通り抜けた。千代を見つめていた知秀の目がすっと逸らされる。
「ごめん…俺、婚約してるんだ」
『―婚約してるのに私とこんなことしたの?』
千代は喉元まで込み上げてきたそんな台詞をぐっと飲み込んだ。誘ったのは千代の方だった。そして、知秀の性格もよく分かっていた。
「そっか…ごめん、変なこと言っちゃって」
頑張って口角を上げる。うまく笑顔になったかどうかは分からない。
「じゃあ…私帰るね」
「家まで送ってくよ」
そう言った知秀に千代は手のひらを向けて制した。
「大丈夫!すぐそこだし。今日は会えてよかった。…さよなら」
千代はそう言うとくるりと知秀に背を向けて歩き出した。後ろは振り返らなかった。
気が付くと千代は走り出していた。パンプスをはいた足がもつれ、街灯に手をついて大きく息を吐き出す。知秀が追いかけて来ることはなかった。
(…今日ので妊娠しちゃってたらいいのに)
そんな考えがふっと頭を過ぎり、自分の馬鹿さ加減に千代は自嘲気味に笑った。
笑ったはずなのに、頬には涙が伝っていた。
「まだこんなに好きだったんだぁ…」
そう呟いた途端、急に胸が苦しくなり千代はその場にしゃがみこんだ。
知秀と別れてから何人かの人と付き合ったが、誰とも長続きしなかった。それは無意識のうちに知秀と比較してしまっていたからかもしれない。
(もう忘れなきゃ…)
しばらく泣いた後、千代は涙を拭って空を見上げた。潤んだ目に満月が映り、辺りがきらきらと光って見えた。
知秀と一度だけでも結ばれたことは幸せだった。でも…
(…あの場所に誘わなければずっと綺麗な思い出のままだったのに…)
これでよかったのだという思いと大切な思い出を壊してしまった後悔が同時に襲ってくる。
どちらの選択が正しかったのかなんて今の千代には分からなかった。
「好きだよ…知秀…」
そう呟いて千代は目を閉じた。