短編集-4
「一時間の愛」
彼女は言う。私が今生きている時間は一日でたった一時間、午前六時から午前七時までなのよ、と。
「何故?」と僕が問うと、彼女は自嘲的に笑って、こう言った。
「七時以降、私は化粧台の前に座って化粧をするわ。そうしているとね。頭のスイッチがオフになるの、余計な事は考えない、時間と上司の言いつけを完璧に守れる社会人になる」
分かるかしら、と彼女はコーヒーの入ったカップに角砂糖を落とした。
分かる気もした。分からない気もした。半々に別れた思考は彼女の問いに対しての答えを直ぐに口から出してはくれなくて、僕は少しだけ途方に暮れた。
「その一時間、何をしているの?」それをごまかす為に、僕は問いに対して問いを返した。
「窓辺で外を見ながら、コーヒーを飲んだり、煙草を吸ったりしてる」別段、答えが無い事に不満も無かったらしい。彼女は淀みなくそう答えた。「その間だけ、私は生きてる気分になるの、忙しなく動く世界から隔離されて、時間が止まったみたいに。変よね。時が止まっていると感じているのに、生きている気分になるなんて」尚も自嘲的に、彼女は笑う。
変だね、なんて言えなかったし、分からない、とも言えなかった。一日の二十四分の一。その一に彼女は今、生かされている。
「一日の内一時間だけ、私は生きている。そしてその間だけ、私は世界を愛するの」
「愛?」
少し唐突なその言葉を、僕は繰り返した。そう、愛。と彼女は頷いた。
「一時間、私は絶望もしてないし、何の希望も持ってない」
でもそれって、愛だと思わない? と彼女は再び僕に問い掛けた。愛と語った唇が、カップを持つ細い指が、弱々しい。それでも一時間だけ世界を愛すると言った彼女はどこか儚くて、僕は泣きそうになった顔を隠して頷いた。