海螢(美奈子の場合)-1
別にSMに興味があったわけではなかった。
…えっ、二十九歳だって…ウソでしょう…
…三十五歳か…こんな商売、ダンナにばれたら大変だよ…あっ、独身なの…まあ、奥様風で美人
だし、M嬢やってよ…
SMクラブ「ルシア」の禿げた色黒い中年のマネージャーが、美奈子の足首から胸元まで舐める
ように見ながら言った。
…少しは経験あるよね…縛られたり、鞭で打たれたりされること…ちょっと、つらいとこある
けど…年齢が年齢だし、ちょっとハードものやらないとお客さんつかないよ…からだは大丈夫だ
よね…
視線の定まらないその中年の男は、美奈子の耳元に濁った息を吹きかけるように言いながら、
短いタイトスカートに包まれた美奈子の腰から太腿にかけて、いやらしく掌を這わせた。
あのころ…ヒロユキと別れたあと、どうしようもなくあの町にいることが嫌だった。
高校を卒業し、美奈子は隣町の専門学校に通い、ヒロユキは地元の信用金庫に就職した。高校の
ときからヒロユキとはずっとつき合っていた。
小学生のときに両親が離婚し、母親とふたり暮らしのヒロユキと幼少のときに両親を亡くした
美奈子とは、何かしら通じ合えるものがあった。
写真が趣味だったヒロユキが語る夢にどこか惹かれていた。写真家になる…いつか世間があっと
言うような写真を撮る。そんな夢に包まれたヒロユキが、どうしようもなく好きだった。
ずっと、そう思っていた…。
でも…
就職し、真新しい紺色のスーツを着たヒロユキが夢と現実を語り始め、美奈子との幸せにふれる
とき、なぜかヒロユキがわからなくなっていた。
ふたりが幸せになる…その「幸せ」という言葉に、どこか戸惑いともどかしさを感じはじめた。
彼が持っていたずっと昔の家族の写真…両親といっしょに写ったまだ小学生の頃の幸せそうな
ヒロユキの姿だった。
でも、その写真を見ることが嫌だった。家族をしらない美奈子にとって、そんな写真を見せられ
ることが嫌だったのだ。ヒロユキに対する苛立ちが、美奈子の中でひとり歩きを始めたとき、
ヒロユキとのあいだに何かが軋みはじめていた。
そう…
好きだったのにヒロユキに見つめられることが、少しずつ苦痛になっていた。
あのころ、ヒロユキと片時も離れず肩を寄せ合っていたいと思っていた自分の心が、水に溶かし
た水彩絵具のように薄く滲んでいった記憶が脳裏に漂う。