海螢(美奈子の場合)-8
携帯電話がメールの着信を示すランプを点滅させていた。ムラタからのメールだった。
…妻と別れたよ…もし、君がよければ、わたしといっしょになってもらえないだろうか…
マンションの窓からは、夜明けの澄みきった空気に包まれた高層ビルが遠くに見えていた。その
向こうには、いつもの海が穏やかに見える。
ヒロユキとともに生まれ育った瀬戸内海の懐かしい潮の匂いが、記憶の中からゆるやかに甦って
くる。
憧れと夢…何を求めて自分がここにいるのかわからなかった。ヒロユキは、もういない…どうし
ようもない切なさだけが、クラゲのようにゆらゆらと心の奥に寂しく漂っているような気がした。
一ヶ月後、美奈子はSMクラブをやめた。そして住み慣れたマンションを引き払った。
ムラタが車で迎えに来る約束の時間まで、まだ少し時間があった。ボストンバッグをかかえたま
ま、ウミホタルの写真がある近くの喫茶店を訪れた。いつもの写真の中から、じっとヒロユキが
自分を見つめている気がした。
喫茶店を出て空を見上げる。迷いはなかった…。
ビルのあいだから、抜けるような冬の青空が広がる。ヒロユキの残像が次々と折り重なるように
湧き上がってくる。美奈子がその輪郭を深く胸に吸い込んだとき、ふいに胸の奥が微熱を持つ。
美奈子の心と体をずっと縛り続けているのはヒロユキなのだ。
でも、やっとヒロユキの瞳に素直になれる自分を美奈子は感じていた。そう思ったとき、どこま
でも続く澄みきった冬空の果てにある、手の届かないところに浮かんでいるヒロユキの残像を
静かに愛することができるような気がした…。
…ヒロユキ、さよなら…