緑原の雄姿-7
『彼らは、走らなきゃ殺されるんです…』
『えっ…』
予想外の返答。走らなければ死。私の頭の中で直結しなかった。
続けるかの様に、静かに語りだした向井師。
『勝てなかった牡馬。登録末梢後はどうなるかご存じですか?』
小さく首を振る私。
『殺されます…』
『ウソ…』
信じられなかった。引退した馬は、乗馬や牧場に行く。それが大半をしめると思っていた。
『今現在、日本で一年間に生産される競走馬は9000頭近くになります。全てが活躍出来る世界じゃない。勝てないと判断されたら殺されるんです。お金の問題。単純ですが、重要な問題です。』
言葉が出ない。何も言えない私に気付いたのか、向井師は静かに、しかしハッキリとした口調で言った。
『だからこそ、我々は勝たせる為に鍛えるんです。彼らはペットじゃない。競走馬なんです…』
あまりにも無知な私。そんな自分を恥じた。
『申し訳ありません…』
私の口から、自然とでた謝罪の言葉。無礼な発言と不勉強さを悔いた。
『そんな…謝らなくてもイイんですよ。競走中止の馬を多数出しているのは事実なんですから。』
向井師はどこまでも私に対して紳士的な態度で接してくれた。それに引き替え、私は…
うつむいたまま、顔が上げられない。そんな私に向井師は語りかけた。
『私はこの仕事に誇りを持ってます。そして、馬達に対して、畏敬の念を抱いてます。だからこそ、彼らを勝たせてやりたいんです。』
未だに声が出ない私を尻目に、向井師が言った。
『あなた達の様な若い方々が競馬界を危惧し、意見してくれるのは非常に重要な事です。本日は、ありがとうごさいました。』
…ガチャッ!
最後にそう言い残すと、向井師は部屋を出た。
ある種の敗北感。私の心に残ったのはそれだけだった。
しかし、今までとは違う何か。はっきりとは分からない何かが私の中に生まれ始めていた…
−失意のどん底。いつもの私ならそうなっていただろう。しかし今回は違った。
資料室でデータを開く。向井師の調教馬をピックアップし、傾向を調べてみる。
細部までチェックして分かった事。ある種の共通点があった。
『これって…』
…ガチャッ!
『やっぱ、ヤッてるみたいだな。』
隆一だった。いかにも全て知ってる。そんな顔をしていた。
『ちょ…やっぱ、ってどう言う意味っ!?』
『悪い。実はハメたんだよ。昔の俺と一緒だと思ったからさぁ。俺は向井のジイさんのやり方ってのを知ってるから。』
ハメた。隆一らしい言い方だった。私の憶測だが、問題は自分で解決すべき、そんな意味があったのだと理解した。
『そう言えばさっき、ジイさんから連絡あったぜ。』
『えっ…』
『根性ありそうだって誉めてたぜ。あのジジィにそう言われるとは、大したモンだ。』
あれだけ失礼な発言に対して紳士的に対応した上に、私の事を評価してくれてる。自分がいかに子供なのかを実感した。
『で、細かく調べた結果、何か分かったか?』
『はい…この血統って…』
『そう。あのジイさん、マイナーだったり衰退した血統の馬ばかりを調教してるんだ。理由は簡単。血統の繁栄が行き詰まるからだ。』
日本の競馬は、ひとつの血統に集中しやすい傾向がある。確かに誰もが勝てる馬を求める。しかしそれにより、血統の偏りと言う弊害が生じる。
『父馬も母馬も、ほとんど実績が無い。だけど、同じ系統の血が交じってないのが大半だ。』
あらゆる哺乳類に言える事だが、近親交配は産まれてきた子供に悪影響を及ぼす。特にサラブレットの場合、源流はたった三頭の牡馬だ。
だからこそ、違う血を入れなければならない。逆を返せば、系統がバラバラな馬ほど、健康で頑丈になる。
『あのジジィ、それを理解して預かってるんだ。そして、鍛えて勝たせる。その理念を持ってるんだ。』
事実、マイナー血統の馬を徹底的に鍛え、G?馬に仕上げた例もある。向井師はそれを実行していたのだった。
『まぁ、中には残念な結果になった馬もいるが、それでも勝ちに行こうとする姿勢は称賛に値するな。』
競馬界の未来を考えての行動。それを知らずに己の考え方のみを正当化していた私。改めて、自分の無知を恥じた。
多分、彼らが命を落とす事に対して一番心を痛めてるのは、向井師本人なのだろう…
『私…』
言葉が出ない。何を言っても言い訳になる。そんな気がした。
『でもな…』
それを察したかの様に、隆一が話し出した。
『このおかげてお前もプロの一員になれたと思うぜ。今日の取材、収穫あったろ?』
プロ。その言葉の重みを分かっている。分かっているからこそ、純粋に嬉しかった。
隆一に認められる。今の私にとって、何物にも代えがたい財産だ。