走馬灯-26
覚悟はなかった。感覚は覚えていた。冷たくて、とても冷たくて、痛みはなかった。死ぬ感覚は、ただ雨にまぎれた血の色にある。赤い赤い血液は銀色の刃にとうとうと流れゆくはずだった。予想に反し、したたっては雨に流され、痕跡すら許さない天の決め事は大いなる報いのように感じた。
「消してやるよ。」低い声。
この世から…消す。決意は運命には勝てなかったのか。消えるはずが消される。終えるはずが終わる。無情。少しずつ力が抜けていく。
だが、まだ、出来る限りのことを。俺は自らの意志で消えるんだ。終えるんだ。走馬灯と共に。腰に突き立てられた包丁を勢いよく抜いた。ブシュっと小気味よい音を立てて抜けた刃を、肥えに肥えたビール腹に突き刺す。仰向けで串刺しとなった俺は田宮を見る。田宮も困惑した顔で俺を見る。
自殺となるように引き裂こうか。土佐勤王党の武市瑞山は、確か腹に三と描いて割腹して果てたと言われている。試すことに恐怖はないが、価値はないかもしれない。時代錯誤も甚だしいし、何より腰に刺し傷がある。他殺か自殺かで言ったら、もちろん…残忍な犯行。江戸時代末期に詳しい刑事にあっても疑うだろう。
だが諦めてたまるか。
運命に負けてたまるか。
「お前、に、罪は…被ら、せねぇ、…早く、かお、りを…、連れ…て逃げ、ろ…。」何を言っているのか分からないと思うだろう。殺そうとした男が、何故か自分を救おうとしている。
「なんでだよ。」黙れ。「俺を、俺たちを散々苦しめといてよ。」早く。「てめぇになんか…」行け。
幸せに…。
残念ながらこの押し問答をやり遂げる間には余裕でお陀仏だ。もちそうにない。報われない。力を振り絞って田宮を突き飛ばした。「俺は、お前、に全部…かけ、てんだ…。救いて、んだ…早く、しろ、や…。」
幸せにな。
切迫した声。切羽詰まった表情。こんなにも俺に対して真剣な小林は見たことがない。田宮はうなずきもしなかったが、何度も振り返りながら車に向かった。
遺書。遺書か、必要なものは。一件が落ち着いてから書く気ではいた。それは田宮とかおりが幸せをつかんでから。雨はいつしか上がり、最後の作業をする俺をほんの少し勇気づけた。ドアが開き、5秒後にアクセラは動き出した。右手で包丁に指紋を巡らし、左手で胸元をまさぐる。油性サインペンがあった。メモ用紙も内ポケットにあった。良かった。十分だ。雨に濡れてもなんとかなるだろう。
『私は人生に疲れたので自らの命を断ちます。小林』
やりきったようで、まだ足りない気がする。なかなか冴え渡っている自分を誉めてあげたい。携帯電話だ。まずは、発信履歴を削除して、録音メモを残そう。
「私、は…、人生、に疲れ…、まし、た。背中…、を刺し、た…、だけ…では、死に、き…、れず、腹、を刺し、ました…。自、殺です。みな…、さん、今、まで、ありが、とう…ござい、ました…。」
録音を終えると同時に、おどろおどろしい爆音がとどろいた。何やら木が次々に薙ぎ倒されていくような。雷か。近くに落ちたんだな。今となってはもうどうでもいいか。走馬灯も終わりだ。俺の屍を踏み越え、頼む、幸せになってほしい。世の中がぐんと遠くなる。徐々に小さくなる灯火。うまくやれたかな。自分をしっかりと誉めて走馬灯を終わりたい。