走馬灯-10
「うん。緊張する。でも田宮さんがついてるから、きっと大丈夫。」仕方ない。仕方なかった。今は女で、かおりで、確かそんなようなことを言ったのだから。自分でも気持ち悪いと思うが…やはり…仕方がなかった。屈辱とは思わないが、やはり…込み上げるものが…ある。
パソコンの右側から顔を出す田宮。「そっちは終わりそう?」思わずこっちも右側に顔を出してみる。「大体。今は質問に答えられるように補足資料を点検中。」今まで自分の生き方には賛同してきたつもりだ。それなりに愛着もある。それでも俺が自分に対して恋に近い気持ちはもてるはずがない。
それでも直視できない。恋する乙女役を演じずとも、結果的に出来てしまいかねない。それは痛々しさからくるのか。それは情けなさからくるのか。とにかく直視出来ない理由は早々に乗り越え、今はなるべく過去を歪めず、俺は俺と恋をしなければならない。
手をつないで、キスをして、ケンカして、セックスして…。
田宮は立ち上がった。「そろそろ帰るか。送るわ。」俺もゆっくり立ち上がった。「余裕だね。いつもさ。」上目遣いで覗き込む。仕方ない身長差の世界だ。クールというよりドライな田宮も少したじろいだ。確かにあの時はたじろいだ。「ねぇ、慣れてるの?女の子の扱いも。」「別に。終電ないでしょ?」やけにたくさん話した。あの時、かおりは怒涛の攻めを見せた。と後々言っていた。俺の記憶力もまぁ捨てたものではなさそうだ。
退勤時の出口は1つ。「お疲れ様〜。」「お疲れ様でしたー。」あの守衛のじいさんの奥様はまだ倒れていなかった。相変わらず、奥様想いのじいさんだった。
「あの守衛さんの奥さん、具合悪いんだってな。」さっきから饒舌な田宮、は鍵をバッグポケットから取り出し、右手にとった。外灯に照らされ、にぶく光った鍵を見ながら、「うらやましいな。守衛さんの奥さん。大切にされてんだよ、きっと。」前を歩く田宮に語りかけた。「なんだか、分かる気がするよ。」一歩進んで止まる田宮は振り返って、少し微笑んだ。無理のない優しい顔だった。専務に対する無理のある作り笑いではない。
「ねぇ、明日のプレゼン成功したらお祝いしよっか?2人で。」いつの間にか横を歩いていた2人。「ん。考えとくわ。今日のプレゼン、な。」「あっでも、まずはA班の皆で、か。」「いいよ。もし、やるなら2人で。大勢は…いいや。」少し顔が曇った。ほんの一瞬だ。田宮の抱える闇は最初から知っていたから。過去の自分では切り払えなかった闇から田宮を解き放つ。それが今回の旅の目的。
「約束ね。絶対。」田宮は無言で足早に歩いていく。愛車フィットを回してくるつもりだろうが…単なる気遣いのためか、恥ずかしかったのか、真っ直ぐな信頼から逃げたかったのか…それだけはおぼろげにも思い出せなかった。