やわらかい光の中で-92
彼は千鶴の姿を見るなり普通に声をかけてきて、2人は適当な挨拶をしてすぐに別れた。
その帰り道、アパートの前の誰もいない公園をじっと見つめたまま、彼女は立ち尽くしていた。
公園は昼間の喧騒を失い、疲れた体を癒すかのようにひっそり静まり返っていた。
昼間は子供達が元気に遊び、その横でその母親達が談笑に耽っている。くだらない話題をいかにも楽しげに話している彼女達を見ると、千鶴は虫唾が走った。このまま結婚すれば、自分もその輪の中に入らなければいけなくなるのかと思うと、嫌気がした。
そう思いながら、じっと公園の頼りない外灯を見つめていた。
外灯の明かりの周りを一匹の蛾が重そうな体に不気味な羽をバタつかせて、フラフラと浮遊していた。
気が付くと、彼女の足は慎治のマンションへ向って動き出し、頭の中には蛾の残像だけが残された。その忌まわしい残像を振り払うように、彼女は進行方向へその足を進めた。
彼のマンションの前で立ち尽くし、挙動不審に辺りを見回した。自分に何か問いかけていたが、何を問いかけているのか自分でも良くわからなかった。
そして、これで本当に最後と心に決め、慎治に電話をかけた。
何を話せば良いのか、また、何を話すつもりだったのかもわからない。
ただ、自分の犯している罪の重さは、十分理解していた。
「駅前で彼に会わなければ、ここに来る事もなかっただろう。
結婚式を目前に、こんな所まで来て、いったい自分は何を望んでいるのだろうか。」
頭の中で同じ言葉が何度も繰り返された。
そして、神様は悪戯に微笑んだ。
慎治がマンションの前の彼女に気が付いたのだ。
暗い部屋の中から彼の目だけが薄っすら浮かんで見えた。
表情は見えなかったが、目の前の現実を彼も受け止められないでいるようだった。
神の存在が在るとしたら、今、ここに神はいると漠然と思った事を彼女は覚えている。
それから彼女はなんとなく走り出した。
慎治が自分を追いかけてくる事を確信していたのだ。
すぐに後方からカチャカチャと金属音が聞こえてきた。千鶴はベルトのバックルの金属音だと本能的に思った。そして慎治がベルトを外したまま、急いで追いかけてきている姿を想像した。
暫くして、強く優しく彼女の腕を捕まえる、慎治の大きな手の温もりを感じた。
それから彼女は彼の胸に顔を埋め、泣いた。
しかし、何に涙がこぼれたのか、自分でもはっきりしなかった。