やわらかい光の中で-9
彼はうつ伏せの状態から3回パドルをすると、すぐに立ち上がり、板を扱(シゴ)きながら速度を上げていく、アップスーンという技を駆使しながら、波の下に降りては上がり降りては上がりを繰り返した。
ショートボードはロングボードやファンボードに比べ、浮力は弱いが板の操作性は高い。エッジを軽く波に噛ませても、スピードが上がらないパワーの弱い波の場合、このアップスと呼ばれる小技で板の速度を上げていくのだ。またある程度の速度がないと、板を回すことができない。
乗っていた波がパワーを失い始めると、慎治は状態を更に低く保ち、波が崩れるスピードよりも早く板を滑らせ、隣の乗れそうな波に乗り移った。
しかしその波のパワーも薄らいでいたため、残念そうに体を起こし、板を砂浜に向けて扱きながら、波打ち際までその崩れた波に乗って帰ってきた。
「かっこいい」
単純に思った。
しかし次の瞬間には、そんな風に思ったことさえ忘れた。
その日は成り行きで、帰りに2人で食事をして帰った。
◇
それからなんとなく、3日に1度のペースでメール交換をするようになった。といっても、波情報や天気などの他愛ないメールである。
慎治が本当に波乗りを愛している事が伝わったくる内容だった。そんな彼を快く感じている自分がいる事に気が付き始めていた。
◆
3回目もやはり海だった。
桜も散りかけた4月の第2週の良く晴れた土曜日。気候も穏やかになり、ブーツもグローブも耳栓も要らない時期になっていた。
海水もずいぶん暖かくなった。
さすがに海に入った瞬間はその冷たさに身震いしたが、少し入っているとそれにも慣れた。
人は少し増えたが、それでもまだまだ少なく、穏やかに波乗りを楽しむことができた。
裕美は1時間ちょっと入って1度休憩し、それからまた少し入った。
休憩を挟める程暖かくなった事で、だんだん夏が近づいていることを実感していた。
慎治は、沖でロングボードの人と波取り合戦をしていた。
「あの人、上手いなぁ」
と、まるで全く知らない人でも見るように彼のことを眺めていた。
2時間程して裕美が着替えを済ませ、板をケースに仕舞っていると、慎治が海から上がってきた。
「ずいぶん、あったかくなったね。」
「そうだね。」
板を専用の台の上に置いて、話しかける慎治に目を向けずに、裕美が答えた。
「桜散っちゃったかなぁ。」
「まだ咲いてるんじゃない?」
「今年、花見行ってねぇなぁ。」
「毎年お花見とか行く人なの?」
「けっこう行く。…なんで?」
「なんか…サーフィンしかしない人なんだと思ってたから…桜を愛でてる姿が想像できなくて。」
「失礼な。日本人ですからね、毎年桜は外せないでしょ。…今年はどっか行った?」
ウェットを着たまま煙草に火をつけながら慎治が聞いた。
「大学の友達と、友達の近所の公園に行った。」
板をケースに仕舞い終えた裕美が慎治の方を見ながら答えた。
「へぇ…きれいだった?」
「うん。多分。」
「多分ってなんだよ。」
「あんまり天気が良くなかったから…満開の時期に行ったんだと思うんだけど…寒かったし…。」
「花見って寒いよな。」
「…うん。でも友達の旦那さんが家から七輪みたいのを持ってきてくれて、けっこう暖かかったけど…。」
「どっちだよ!」
「あぁ…。暖かかった…旦那さんが来てからはね…。」
「文句の多い子だね。」
笑いながら慎治が言った。
「そうだね。」
笑いながら裕美が答えた。
「今日さぁ…少し遠回りして帰っていい?桜をちょっと見たい。」
煙草の火を消し、お湯の入っているタンクを開けながら慎治が言った。
「いいよ。」
その姿を目で追いながら、裕美が答えた。
裕美は、どこに咲いている桜を見に行くのか少し気になったが、特に聞かなかった。
別にこの後の用事もないし、今日は家に帰って寝るだけだ。明日は日曜日で会社もない。その気になれば、いくらでも寝ていられる。帰宅が何時になっても、帰れればいいと思っていた。