『花』-6
部屋の中に響く声は、ニュースキャスターの淡白な声だけになっている。彼女はもう帰ってしまった。
テーブルに置かれたずんぐりとした形のマグの中には、彼女が飲み残した甘ったるいカフェオレが残留思念のように僅かに残っている。
「じゃあ、またね」
と彼女は去り際に言った。またね、という響きはしかし、ほとんど説得力を所有していなかった。
僕は彼女を引き止めるべきだったのだろうか。
いや、引き止めたとしてもどんなことを言うべきだったのだろう。
何通りかの台詞をシミュレーションしてみたが、どれも大した意味を持たずに空を切るだろうことは分かっていた。
彼女のことは好きだけど、付き合ってうまく行くなんてとても思えない。僕らは似すぎている。現実的な想像力がありすぎるところも。
現実的な想像力というのは、絵空事を描く能力じゃない。起こりうる現実を正確に思い描くことだ。
僕と彼女は、お互いの想像力を応酬した結果で今までの関係を築いてきた。
まだ起こっていないことについて後悔し、これから影が落ちてきそうな地帯を注意深く回避した。回避、回避。僕らはただただ可能性を回避した。
「幸せになんてなれる気がしない」
数分前にクッションを抱いて彼女は言っていた。
「ねえ、今何時?」
「11時47分」
僕は答えた。壁掛け時計は彼女の位置からでも死角ではなかったけど。
「こんな時間に、こんなところに居る女がうまく幸せになれると思う?」
「でも何もしてない」
この僕の言葉は、励ましではなく、単に自分に対しての言い訳だったかもしれない。
「何もしてないからこそ問題だとは思わない?」
だから彼女のこの言葉は、何故だか僕のほうを打ちのめした。
テーブルの上を片付けると、彼女の痕跡はさっぱりと消える。彼女はなるべく痕跡というものを残さない。どこに居るときでもそうだ。
ベッドの上に投げ出したままになっているコピー紙の束が目に入る。妹の書いた小説だ。
『花』というタイトルがつけられたこの小説は、僕にとっては、面白いか面白くないで言えば、面白くはないものだった。どこか不完全な物語だと思う。起承転結ははっきりとしていないし、全体を通して何を伝えたいのか、テーマが曖昧だ。
でも何故か頭に残っている。
不完全さ、というのが、かえって僕に何かのひっかかりを感じさせる。
やけにすっきりと完結した自分の部屋を見渡して、ただそんなことを思う。
『……
部屋の中で一人、弘樹は花を眺めていた。
でも心が休まらない。弘樹の心をいつも肯定的に震わせていた花だったが、今はそうではない。花を見ていると弘樹の心は否定的に黙り込む。
花の色が少し変わっている気がする。
「今日は帰るわ」
と言って優子が部屋を出て行ってから、弘樹の頭の中にはずっと一つの考えがぐるぐると巡っていた。
(僕は佳奈のことが本当に好きなのだろうか)
優子の思惑は、本人が思ったよりもずっと深く弘樹を侵食している。
今まで、弘樹の前に自分で解決できない問題が発生すると、それはすべて佳奈が片付けてきた。でもこの問題ばかりはそういうわけにはいかないのだ。
弘樹が望むと望まざるとに関わらず、佳奈は弘樹に干渉し、佳奈は弘樹のそばに居た。弘樹と佳奈が関わる時、いつも切掛けは佳奈が作った。それでいいと弘樹は思っていた。いやそれがいいとか悪いとか思うことすら無かった。当たり前のこと過ぎて。
弘樹は思う。自分から佳奈に干渉していったことがあっただろうか。佳奈のほうから自分に会いに来なくなったら、ひょっとしたら自分と佳奈はもう二度と会わなくなってしまうんじゃないだろうか。
言いようの無い寂しさが弘樹の体に満ちる。それは身体の左側からやがて全体に染みていくように感じた。
自分が求められることはあっても、自分が求めたことはあっただろうか。