『花』-5
「本当に花が好きなんだね」
弘樹がそう言うと、優子は弘樹の左手を取り
「うん、好きですよ、とても」
と言った。その時優子の視線が、手の甲の上ではなく弘樹の目を捉えていたことに、弘樹は気付くべきだったのだ。弘樹の左手を握る優子の右手が宿す熱を弘樹は感じ取るべきだったのだ。
今日、優子が弘樹の部屋に訪ねてきたのも、当然花のためだと弘樹は思っていた。
「いきなり、どういうこと?」
ようやく脳と声帯が昨日をきちんと取り戻して、弘樹は言った。
「どういう、って?」
優子の声はもう動揺をいささかも含んでいない。
「だから、いきなりこんなことするなんて」
弘樹の脳は回転してはいるが、その軸がまだ少し歪んでいるせいで、駆動が安定しない。
「いきなりじゃないよ。前からそうしようと思ってたの」
「わからないよ。だって」
「だって、何?あなたには佳奈ちゃんが居るから?私が興味あるのはあなたにじゃなくてあなたの手に咲いている花のはずじゃないのか?」
弘樹は優子の言葉にただ馬鹿みたいに頷く。弘樹が言おうとしたことが優子に先回りされる。自分の頭の回転はもともと早くは無いけど、優子がこんなにも頭の回転の速い女だということ弘樹は驚いた。それは何故か冷静な驚きだった。
「まずね、私はもともと花がそんなに好きじゃないわ。ただ花屋に生まれたってだけで。習慣と惰性、それから周りからの圧力のせいで家の仕事をやっているだけ。確かに、手に花が咲くことって不思議なことだし、その花も綺麗な色をしてると思う。でもそれは単にあなたに会うための口実」
優子は淀みなくスラスラと言葉を並べ立てる。あまりに整然としていて、冷たさすら感じるほどだ。
「でも、どうして俺のことなんか」
好きなんだ?と弘樹が言葉にして聞く前に優子は答える
「一目ぼれ、じゃ理由にならない?」
弘樹は黙ってしまう。一番納得も出来ず、一番反論しづらい答えだった。
「ねえ、あなただってその手に咲いた花が随分気に入ってるみたいじゃない?最近突然咲いた得体の知れないものなのに」
確かに優子の言うとおりだ。弘樹は、ここ最近花を見ている時間が長くなっている。花を見ていると、心が安らいでいくのを感じた。その感覚に理由は無かった。原因も結果もなく、単に安らぎの感覚だけが生じた。
「佳奈ちゃんが不機嫌そうに話してたわよ。あいつは私よりも花を見ているほうがいいみたいだ、って。」
弘樹は沈黙で答えを返す。それが肯定を意味していることは優子に伝わってしまう。
「ねえ、佳奈ちゃんのこと本当に好き?」
「好き、だよ」
「本当に?」
優子の視線は左手の甲の花に集中している。それは目を見られる以上に、自分の内面を余すことなく看破されているような感覚を弘樹に与えた。
「本当だよ」
だから自分の答えに自信が持てなくなった。本当に佳奈のことが好きだと口では言っている。心でもそう思っている。でも、自分でも気付いていない領域では、それは本当の事ではないのかもしれない。そのことが花を通じて表に溢れているのかもしれない。花はそんな機能を本当は持っているのかもしれない。優子はそのことに気付いているのかもしれない。だから優子はこんなに自信に満ちた声でこんな質問をするのかもしれない。
色々な、かもしれない、が弘樹を困惑させる。
……』