時の戯れ(前編)-3
「俺の家まで走ろう。」
修一とは幼馴染で、直美は何度も修一の家に行ったことがあるので、修一の家まで一目散で走っていった。玄関に入ると、タイルに水玉模様がポツポツと出来て、直ぐにいくつもの水玉が重なり合って一つになった。服はすっかり水を吸収して着心地が悪くなったが、ふと直美の方を振り返った修一は、直美が着ているTシャツがその色を留めずにその下にあるブラと肌が妖艶に浮き上がっていることに気付かずにはいられなかった。修一の目はまるで視線によって支えられているかのように固まり、その表情にはいやらしさのなかにも14歳の男の子が目の前の「性」の感慨に対して純粋に目を背けずにはいられないという畏敬というか、自然による絶対的な力のようなものがあった。直美は何を言うこともなく、自分をを見つめている修一の視線が、自らの体に向けられていることを察すると、瞬時に襲ってくる堪らない羞恥心から自然と小さな愛らしい悲鳴と共に胸を腕で隠す。気まずさに顔を背けた二人だが、次の瞬間に双方の一瞥が重なり合い、更なる気まずさを呼ぶ。
「あ、あのさ、シャワー浴びてから着替えて帰る? それとも、何か羽織るものと傘だけ貸そうか?」
「じゃあ、悪いけど着る物と傘だけ貸してくれる?」
「うん。服取ってくるからそこでまってて。」
明後日の方向を向いたまま意を決して声を発した修一の声によって渡りに船を得た直美は、即座に答えると、修一も気まずい空間から脱出した。
玄関から離れて少し冷静さを取り戻した修一だが、まだ心臓の鼓動はマラソンを走りきったかのようだったが、それとは少し違う種類の締め付けるような痛さともいえず苦しさともいえないものが、鼓動に負けずに自己主張している。これが恋という"感覚"なのだろうか。それとも、恋の"きっかけ"なのだろうか。心は脳によって作られるから、頭にあるはずだが、心臓はそれを一番反映するのだろう。それぞれが、映写機とスクリーンの役割をもっているといえるかもしれない。直美とは幼馴染のため、これまで作用していたウェスターマーク効果もあっさりと打ち砕かれ、直美を想うと「好き」という感情が込み上げてきて、大人への階段を上り始めた体が脆くも突き破られそうだ。一方、玄関で待っている直美も同じように胸の高鳴りが続いていたが、やがてそれが収まりつつあった。この違いが、今後修一を苦しめるのみならず、直美自身をも悩ませることになった。
少し厚手の半袖Yシャツを持った修一が玄関にやってくると、直美の方を見ないようにそれを渡した。
「そこにあるビニール傘、どれでも好きなの持って帰っていいから。」
「ごめんね。じゃあ、バイバイ。」
Yシャツを着て帰ろうとする直美の後姿を見て、「『好き』と言いたい。」と思った修一ではあったが、その口が心の声を外に伝えることはなかた。即ち、「告白をして今の関係を壊したくない」という月並みな言葉が今の修一には切実な問題として重くのしかかり、苦悶するばかりであった。
帰宅して直ぐに入浴した直美が想いを馳せているのは、修一とは違う男の子だった。アメリカでの滞在中は一番多くの時間を共有した筈なのに打ち解けることのできなかったアンディーが気懸かりで仕方がないのだ。メールは送ったが、果たして返信して貰えるのか。心配な気持ちが増していき、はやくメールのチェックをしたくて仕方がなかった。体が温まると、直美は直ぐ自室のパソコンを立ち上げてメールの確認をした。しかし、返信は1通も来ていない。そして、それが人恋しさを煽り、ほぼ無意識の内にケータイを手に取り、電話帳を開いた。横キーを押したままで、五十音の第一段がくるくると回っているが落ち着くところがない。ふと選択したのが修一の番号だったが、ついさっきの気まずさが甦って電源ボタンを押して待ち受けに戻し、パチンとケータイを閉じてしまった。そんな時、手の中でケータイがメールの着信を知らせ始めた。