伊藤美弥の悩み 〜初恋〜-1
「ねーさんねーさん」
続いて聞こえてきた何とも古いナンパの台詞に、瀬里奈は呆れるより先に吹き出してしまった。
元々の美貌に加えて近隣の高校では群を抜いて可愛いと評判の……つまり、無言の入学規制と定評のある、着る者をある程度選ぶ制服を身に纏っている瀬里奈は、繁華街を歩けば声をかけてくる男なんぞはそれこそ掃いて捨てる程いる。
声をかけてくるのはだいたい十代後半からせいぜい二十代半ば頃までの、いわゆるイケメンが多かった。
間違ってもいまいち垢抜けないヲタ……もとい、とある方面へ異常なまでに造詣の深い方々が、勇気を振り絞って話し掛けてくる事などない。
「ふぅん……ねえ。あなた、あたしを退屈させない自信はある?」
その古さがかえって新鮮だった……言い換えればツボに入ってしまったナンパの台詞にくすくす笑いながら、瀬里奈は振り返る。
そこに立っていたのは、予想以上に見た目のレベルは高い男だった。
自分の通う高校から少し離れた場所にある高校の、ブレザータイプの制服を身に着けている。
「自信、なぁ?」
男は、仰々しく肩をすくめた。
「自信ないのにこないな上玉ナンパする男なんて、俺は知らんなァ」
言って、にぱっと笑う。
その笑みを見た瀬里奈は肩をすくめ、挑戦的な微笑みを浮かべてみせた。
「結構。ちょうど暇だし、相手したげる……楽しませてくれたならご褒美に携帯の番号とメルアド、教えてあげてもいいわよ」
こんな出会いをした男と付き合う事になるとは、予想だにしていなかった。
「ふ……」
ため息をついて、瀬里奈は目を覚ます。
夕食後は何となく気怠く、早々に眠ってしまったのだが……目が覚めた今、気分がやたらに重かった。
高級感漂うドレープも美しいカーテンを開けると、真ん丸に近い形の月が空に浮かんでいる。
青白い月明かりが、部屋の中を照らし出した。
瀬里奈の部屋の内装は、ハイソ&エレガンス+アンティックテイストといった所である。
一年近く経つのに未だ心へしこりを残すあの男が、大好きだった趣味だ。
本当の自分には無理で苦しくて、精一杯に背伸びをしていたあの恋。
豪奢な物を身に着けても気後れしたりしないようにと、普段から慣れるべく段階的に整えていったこの部屋。
「紘平……」
付き合い始めたばかりでまだキスもしていない恋人の名を、瀬里奈は呟く。
『この制服……なぁ瀬里奈。同じ学年に、伊藤美弥と高崎龍之介っていう奴らがおらんか?』
『いるけど……』
『ホンマか!?うっひょー、やっぱりおんなじ学校なんかぁ!』
『二人共、あたしの知り合いよ?』
『何やてぇ!?っひゃ〜、偶然ておもろいなァ』
何気ない会話が、脳裏をよぎった。
「紘平……」
いたたまれない程切ない気分になった瀬里奈は、ベッドの近くの置いていた携帯を手に取る。
紘平が起きている事を祈りながら、瀬里奈は電話をかけた。
だが。
返ってきたのは、女性のアナウンス。
瀬里奈の気分は、一気に沈む。
「紘平……あんた、どこにいるのよぉ……?」
半泣きで、瀬里奈は呟いた。
ぱちりと音がして、部屋の上部の明かりが点く。
ベッドにテーブル、座布団にクローゼット。
整然と並んだ家具を含めても、紘平の部屋はけっこう広かった。
全体的に見て小綺麗にまとまっており、居心地が良さそうである。
「わー。広いねぇ」
感心していた美弥だが、意外と近くから紘平の声が答えたので少し驚いた。
「せやろ?」
紘平は美弥を追い抜き、開きっ放しだった窓のカーテンを閉めてからキッチンへ行く。
「適当に座ってや。今、茶ぁ淹れたるから」
紘平がそう言うと、美弥は頷いてからもう一度視線を巡らせた。
「ん」
美弥はテーブルを挟んで置かれている二つの座布団の一方に、すんなり腰を下ろす。
「茶ぁ言うたけど、紅茶と緑茶と烏龍茶とジャスミンティーと、どれがいい?どれもヤならコーヒーもあるで」
準備の良さに、美弥はずっこけた。
「ず、ずいぶん色々あるのね」
やかんを火にかけながら、紘平はカラカラ笑う。
「おぅ。あっちでの五年間で、飲み物に目覚めてもぅてな。茶とコーヒーの淹れ方には、ちぃとこだわっとるで」
部屋を見回しながら、美弥は言った。
「ん〜……それじゃ、緑茶がいいな」
「ほいよぉ〜。ちと待ってなぁ」
注文が出ると、紘平は緑茶を入れた缶を用意する。