DEAR PYCHOPATH−1−-1
乾いた風が、僕の耳をかすめてとおった。
たった今夢から覚めたような気分で、ゆっくり辺りを見回す。その風景はおぼろげではあるが、確かに僕の知るものだった。風がそよぐ度に微かに揺れる、広大で青々とした芝生の絨毯。女性の優美な胸にも似た丘の連なり。そしてそれを、パステルで擦ったような淡い青が、優しく包みこんでいる。まさしく絵に描いたような絶景だ。
こののどかな大自然の中で聞こえてくるのは、乾いた砂を踏む二人分の足音と、隣を行くベッキーの甲高い声だけである。
「ねぇねぇヘンリー!あれはなぁに、ほら、あの変なもの」
彼女は喜々として、僕の袖を少し強めに引っ張った。真っ白な肌にパッチリとした青い瞳。ブロンドの、さらさらとした長い髪が似合う、まるで人形のような愛らしさをもつ子だ。それゆえに、僕自身大きな葛藤に悩まされることも少なくはない。彼女の持つ魅力。それを思い知らされる瞬間、愛しさの余りに、僕自身の手で彼女を壊したくなることも時折ある。その衝動が頭の中でムクムクと目を覚まそうとする度に、僕は体中に見えない鎖を巻きつけるのだった。
「ねぇヘンリー、あれ何ってば!」
僕の返事が待ちきれなかったのか、ベッキーが再度、僕の袖をひっぱる。
僕は体をかがめ、
「どれ」
と彼女の指さす方へと目を向けた。
「あれ!あのおもちゃみたいなやつ!」
するとなるほど、すぐ近くの木陰に何やら酸化しかけた鉄の塊がポツンとたたずんでいる。緑の彩るこの景色の中で、その黒ずんだものはいささか滑稽に見える。僕は短いため息の後に、にべもなくその質問に答えた。
「水道の死骸だ。かなり古びているようだし、十年以上前のものだろうな」
「ふーん。すごいね!」
ベッキーは大きな瞳を丸くして感嘆の声をあげた。どうやらあれを見るのは初めてらしい。とはいえ、僕としてもあそこまで黒ずんだ水道は初めてお目にかかる。
「もうお水出て来ないのかなぁ、あの水道」
指をくわえたままで、彼女はポツリと言った。
「もし仮に出て来たとしても、あそこまでボロボロに錆びていたら飲む気になるか?」
言われたベッキーはこっちを見上げたままでプルプルと小さな頭を振った。当然だ。あんな所から出てくる水なんて、鉄臭くて、泥臭くて、まずは飲めたものではないだろう。最悪の場合、コレラにでもなって、あの世とこの世を行き来するはめになるかもしれない。
「ヘンリー!ヘンリー!あたしあの水道で遊ぶ!」
けれどどうやら、ベッキーにはそれが分からないらしかった。彼女は握っていた僕の袖を離すと、古びた水道へととんでいってしまった。僕はやれやれと首を振った。
「ったく、おいてくぞ。こんなところで油を売っている暇はないのだからな!」
それでも彼女の好奇心が止むことはなく、僕の見ている前で錆の部分を爪で削ったり、臭いを嗅いで、下や上と、角度をかえては不思議そうに観察を続けている。こういう所がまだ子供だというのだ。
「先に行っているぞ!」
待ちきれなくなった僕は、吠えるようにして言った。人一倍待つのが嫌いなのだ。
何故か僕一人だけ、時間を無駄にしているような気がして、どうしても耐えられないのである。それに声を張りあげたのには、もう一つ別の理由がある。多分、今のはそれが大半を占めていた。チッ・・・と、舌打ちをして、歩きだし、ふと立ち止まる。
後ろを振り向く。ベッキーは依然として、水道と戯れている。
一体あれの何が楽しいというのか、誰か教えてくれ。僕は、心の中で呟いた。と同時に、その中では言葉では言い表せない程の渇きと、空虚感が幾つもの芽を伸ばし始めていた。飢えが始まったのだ。僕は右手で自分の胸板を力いっぱい握ると、きしむ程歯を食いしばった。