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蒼い殺意
【純文学 その他小説】

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蒼い殺意-9

(五)本田宗一郎氏

一通り片づけ終わった女学生は、独り言をつぶやき続ける彼をまじまじと見つめながら、
「よくもまあ、そんなことばかり考えられるわねぇ。驚いたわ!変人だとは思っていたけれど、予想以上ね。知らない人が見たら、あなたのこと‘キ印’だと思うわよ。」と、持ってきた包みを折り畳み式のテーブルに並べた。

「さあ、お昼まだでしょう?おにぎり作ってきたわょ。食べましょう。私の手作りだから、上手じゃないけど。」

しかし、そんな女学生の声に耳を貸すこともなく、彼は続けていた。

「だけどだ。映画のテーマはちょっと違うかもしれない。おかしいんだ。仮面を被ったまま、妻を強姦しようとする。素直に従う妻を見下ろして、『実は・・』と、夫であることを告げる。すると、妻は平然と言い切った、”分かっています”ってね。

たまらず、男は半ば半狂乱状態で外に飛び出した。ところが、行き交う人々全てが包帯を顔中に巻き付けている。嘗ての自分のように。分からないんだなぁ。妻の愛の証しを確かめるための行為だったのか、全くの新しい自己確認の為のそれだったのか。難解だね、安倍公房という作家は。」

テーブルの上のおにぎりに吸い寄せられるように、彼は手を伸ばした。優しさを満面にたたえる女学生が話しかけようとしたが、おにぎりをほおばりながら彼は続けた。呆れ顔の女学生に向かって。

「民主主義の究極、・・・無道徳。どうしてもしっくりこない。形の無い物なんだよな。法律や規則の外にあるんだ、道徳は。一つ一つの約束事を意識せず、体に染み付いてる状態。・・・分からない。

俺は、無道徳だ、反道徳だと叫んではいるが、じゃ道徳とは?と聞かれても答えられない。無道徳って?本能むき出しのことか、それじゃ獣になってしまう。いや、動物だって最低限度のルールを持っている。

元本田技研(現ホンダ自動車)社長の故本田宗一郎氏が面白い随筆を書いていた。『時間の価値』という表題だった。人間の欲望は果てしない。俺だって、君だってそうだ。文明度が高まるにつれ、それらは満たされるだろう。

が、欲求の究極はといえば、結局のところ”時間”かもしれない。あらゆるものを克服しても、時間だけはどうしようもない。生活を無視してしまえば、有限であるとはいえ時間はつかめるだろう。人間の生産活動の全てをロボットに任せたとしたら、・・・。
本田氏の随筆にはこうあった。

=人間は、己の欲するだけの時間を口上で働き、その対価として、『時間券』をもらう。その『時間券』によって、自由な時間とする。=

大体、そんなようなことだった。ひょっとしたら、ほんとにそんな世界がくるかもしれない。そうなったらどうする?」

手作りのおにぎりをほおばりながら、彼は幸せな気分に浸っていた。少年期の、淡い恋心を抱いた異性との語らいのひと時と類似するものだった。相手の気持ちを気遣うことのない彼、一方的に押しつける言葉が、空虚しく部屋を流れる。

「そんな難しい話はわかんない!」と言いたげな、女学生の態度の為だけではない。

彼の言葉とは裏腹に、心の奥底で吠え続けている獣の叫びを無視はできない。そんな獣の衝動に脅かされ続ける彼。だからこそ、会話の成り立たないことを知りつつ喋りつづけているのかもしれない。女学生の訪問は約束事とはいえ、不安定な下での約束であり、彼にしてみれば“来るはずがない”と、自分に言い聞かせていた。


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