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蒼い殺意
【純文学 その他小説】

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蒼い殺意-1

(一)哀しい事実

彼は、四畳半の部屋に住む。部屋代の安いせいか、所々壁が剥げかかっている。又それにもまして、窓の傷みが激しい。開閉時のキシミ音は勿論、桟が朽ちかかっている。何かのショック時には、ガラスが外れかけることがある。だから、めったに窓の開閉をしない。彼がそんな部屋に甘んじるのは、部屋代が安いせいもあるがー私にはそう思えるのだが、彼は否定するー何よりも職場に近いということらしい。

彼は貧乏だ。小さな町工場に働く彼には、新聞誌上を賑わす大型ボーナスには縁が無いし、月々の給料も安い。その為かどうか、彼は新聞が嫌いだ。だから購読していない。(唯単に、貧乏のせいかもしれないが)彼に言わせると、悲惨なベトナム戦争での犠牲者、それ以上の我が国における交通事故の犠牲者等々の、所狭しと暴れ回る活字の横暴ぶりが、彼の心を苛立たせるからだという。

彼の娯楽は、休日ごとの喫茶店通いと毎夜のステレオ鑑賞だ。彼にしてみれば、性能の良いラジオで良かったのだが、ラジオからの押しつけのレコード曲や独りよがりのDJの語りに反発を感じてのことらしい。自分の好きな曲を、好きな時間に聞くという自由がいかに大事なことかと、私に陶々と語ったものだ。

彼のステレオは高価なものである。廉価な物もあるにはあったのだが、生涯唯一の贅沢として購入した。理由は簡単だ。いい音で聞きたい、ということだ。もっとも、彼の耳がどれ程のものかは疑問だが。勿論、月賦である。販売店は、しつこい程にクレジットの利用を勧めたのだが、彼は月賦を押し通した。販売店員は集金の手間を切々と訴えたが、彼は値引きなしの標準価格で買うからと強引に押し通した。

彼は、銀行が嫌いであった。彼の勤める町工場の社長を悩ませる銀行に、良い感情を持ってはいなかった。本来ならば、腰を低くすべきは銀行なのである、と彼は言う。商取引に例えるべきでは性質ではないかもしれないが、威圧的な銀行に対して嫌悪感を抱いている。裏を返せば、エリートに対するコンプレックスかもしれない。

彼の言を紹介しよう。
成る程銀行に対して預金を積めば、行員は腰を曲げるかもしれない。しかし少額の預金者に対して、心底からのそれをする行員がいるとは、どうしても思えないと言う。そして又、預金者は仕入れの業者であり、貸付先がお得意先になるはずだと、と言う。言われてみれば成る程とも思える。それだからこそ、銀行を介するクレジットを嫌ったのである。銀行に負い目を感じることを嫌ったのである。

月賦販売における保証人が必要だと言われ、仕方なく彼は、社長に保証人の依頼をしたと言う。その折り、一笑に付されたとも。
「頭を下げることを惜しむな。土下座してもいい。自分にプラスになることならば、プライド等はいらない。利用することに負い目を感じることはない。銀行での借金は、即信用だ。変に意固地になるな。」

従業員五十人足らずの町工場だが、裸一貫から起ち上げた社長である。わずか三人の家族だけでスタートした社長に、彼は多大の尊敬の念を抱いている。成る程と、納得していた。
兎にも角にも社長の保証人で、彼はステレオを手に入れたのである。しかしその為に多大の労苦を味わった。休日の出勤を三ヶ月続け、その手当を頭金としたのである。

彼の給料は、手取りで17,600円である。同年代の平均は、新聞紙上によれば23,000円である。確かに安い。学歴の無い彼の立場からすれば止むを得ないことかもしれないが。しかし彼は、社長が好きである。彼はいつも私に言う。高給取りだから幸せだとは限らない、毎日が充実していればそれでいい、と。やせ我慢かもしれない。しかし彼は、己の分を知っていると言う。


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