飃の啼く…最終章(後編)-37
―世界を救うなどと世迷言を抜かすな!こんなろくでもない世界を救うだと!莫迦め!それより殺そう!手始めにこのつまらない澱みを殺し、お前を殴ったあの山猿を殺し、それからかたっぱしから殺して、そいつらの血をすすろう!
暗闇にこだまするわめき声は、無秩序にエコーを繰り返して、静寂を追い出そうとした。しかし、彼の心の一番中心に、それを真っ向から否定する者が居た。
―そうだな。
しかし、静かな声が真っ直ぐに、暗闇の中に響いた。それは揺ぎ無い、彼の心の中の声だった。
――この世はろくでもない世界なのかもしれん。お前には、この世界をどう愛すればいいかなど、わからないだろう。しかしな、己には、そのろくでもない世を共に歩んで、幸せをくれた女がいたんだよ。愛してるという言葉に、同じ言葉で返し、俺が言葉に込めた以上の愛情で応えてくれる女が。
わめき声の乱反射が、彼の心の中から、消えた。
――それなのに己はまだ、おまえに何もしてやってないじゃないか…さくら…!
「飃―!行くぞーっ!!」
「おお!!」
眩い光が、町中を照らした。
幾つもの光の粒が、雨のように降り注ぐ。
温かく、美しい光だ。
まるで、母の腕に抱かれて見る、小春日和の木漏れ日のように。
または、たゆとう小船に揺られて、恋人と寄り添う時に見る水面の輝きのように。
そして、一人あるく夜道を、優しく照らす星明りのように。
その光が彼を包んだ時、黷は声を、発しなかった。悲鳴も、怒号も、無念を叫ぶ声も無い。
強烈な光に目を焼かれながら、飃は見た。
光の中でおずおずと、手を伸ばす黷の姿を。
それは、抱擁を迎えようとしている様でもあり、果てしない蒼穹に手を差し伸べている様でもあった。
彼の目に光っていたものが、本当に涙であったのかどうかは、飃には、分からなかった。
光が収まったときに、広い広い屋上に残ったものは、立ち尽くす飃と、横たわるさくらと、その隣に倒れ、すでに息を引き取った覚義、そして、その全てを見つめていた、ゆうという名の澱みだけだった