飃の啼く…最終章(中篇)-13
「今、この子供を助けることが、もっと多くのものの命を危険にさらすことになるかも知れんのだぞ」
さくらは言いよどんだ。命を天秤にかけるのには慣れない。そもそも、自分達が戦闘に加わらずにここまでやってくる事にも初めは抵抗があった。しかし、そうすることで下がる士気、失われる命と、最終的な勝利を天秤にかけたときに、傾くのはもちろん勝利の乗った皿だ。それは分かる。時にはそういう決断をしなくてはならないことは分かっている。しかし…悩むさくらに、飃がまた小さくため息をついた。彼は諦めたような口調で少年に話しかけた。
「坊主、ここに置いていかれるのと、己たちと一緒に来て戦いに巻き込まれるのとどっちがいい?」
「飃…!」
害は迷わず後者を選んだ。
「あの建物からここまで一人で逃げてきたといったな…あの塔の内部を案内できるのか?」
害は危険を感知した。この男は、自分を信用していないことが分かった。彼がその事を隠すつもりがないことも。やはり、この若さで大将になるだけのことはある。たとえ子供が相手でも、油断などない。
「…はい…多分…」
「よし。それならいい」
でも、とさくらが言う。
「大丈夫?怖かったら…」
害は首を振った。
「大丈夫です」
彼女は気遣わしげに微笑むと、彼を抱き起こして言った。
「そうだ…君の名前は?どこから来たの?」
「僕は……」
まさか“害です”というわけにもいかない。しかし人間の男の名前にもそう詳しいわけではない。彼は下手を打つのを怖れて答えられずに居た。沈黙が彼を焦らせる。
「覚えていないんです…その、あそこにつれてこられる前のことが…思い出せなくて…」
そういう人間は前にも見たことがある。低級の澱みが、黷に黙って人間を食ったということは良くあるから。食った食わないで言い争いになるのも日常茶飯事だ。それで言い争いが本当の争いになり、澱みの内で殺し合いになる。するとごく稀に、疑惑をかけられていた澱みに本当に食われた人間の魂が解放される。1,2週間澱みの体内に居るくらいなら軽度で一時的な記憶障害が残るだけだが、子供や老人、またはあまりに長い間体内にいたり、過剰に魂のエネルギーを消費されたりすると重度の記憶障害が発症するのだ。
さくらは少年を負ぶさって、
「そっか、それなら、呼びやすいようになんか考えちゃおっかな…。本当の名前、思い出したら言ってね」
そう言うと、しばらく考えてからこう言った。
「ゆう、はどう?」
害はこくりと頷いた。正直名前などどうせもよかった。それよりも、彼女の無防備な首筋が見えることのほうが気になる。ここに刃を当てれば、何の苦労もなく彼女の首は落ちる。
それなのに、何故自分はそうしたいと想わないのだろう。何故、そうしようかとかんがえる思考の奥の奥に、“いけない”と叫ぶものがいるのだろう。
「私はさくら、で、こっちのヒトが飃ね」
何故、この女は見知らぬ子供を、放っておくということをしない?何故名前など付けようとする?何故?何故、何故なんだ?
―知りたい。
害は知りたくて仕方がなかった。
8月20日、午前10時、彼らはまた一つ、ビルを渡った。