Stormcloud-5
人目を忍んで部屋まで行くために、まず門を入ったところにある広大な広場を横切り、庭園へと続く門をくぐった。そして茂みに身を隠し、柱をよじ登り屋根を渡り…
「ま、まだつかないの?」
しっ、と指を口に当てて、彼女は神立を制した。その表情が、剣の切っ先を思わせる鋭さだったので、神立は思わず身体に力を入れた。わがままな小娘の雰囲気が、まるで別人のように変化していた。
神立ならベランダと呼ぶ二階の部屋の外にある廊下に、二人は息を潜めて座っていた。なにやらこの部屋に用があるようで、まるで忍びのように耳を澄まして部屋の中の様子を一心に聞いていた。神立も、好奇心から彼女に習った。
―男の声だ。話している相手は…いない?独り言か?とにかく何を話しているにせよ、中国の発音ばかりで全く意味がわからない。熱に浮かされた様子で、ほとんどわめいていると言ってもいいくらいの声色なのに、雑音のようなものが混ざって聞き取れない。
がさごそという音がした。途端に春雲は立ち上がり、肩が抜けるかと思うくらいの力で神立の腕を引っ張った。そして、欄干を飛び越え、何のためらいも無く、下に生えている庭園の茂みに飛び込んだ。1秒もしないうちに、今まで自分たちが盗み聞きをしていた部屋の戸が開いた。
「誰だ!?」
「一体なんなんだよ?」と口にしかけたが、春雲が短くシッと言ったのでこの質問も先送りになった。暗がりの中で見ているからと言うわけではなく、春雲の表情は門のところで話した彼女とは全く違う。神立が気づかない内に、誰かとすり替わってしまったのだろうか?自分の鼻が捉えている匂いと、ずっと握っていた手の感触がなければ、彼もそう思っただろうが、目の前に居る少女は、どちらも本物だった。
「阿春?」
真後ろで若い男の声がして、神立は身を硬くした。これも春雲のおふざけの内なのか、はたまた何か…何かはわからないが、とにかく何かがあるのかは判らないが神立は完全に少女のペースに乗せられていた。
ここにいて、と彼女は目で訴えた。
どうするつもりなのか聞こうとすると、彼女はもうすでに、茂みの外へ飛び出していた。
「香雲(シャンユン)哥さん!」
「阿春、また“かくれんぼ”かい?」
「もぉ、せっかくびっくりさせようと思って隠れてたのに!それに阿春って呼ばないでったら!」
どうやら春雲の哥(あに)らしい青年が、優しげな声ではは、と笑った。
「どうして阿春じゃ駄目なんだい?」
「だって、あたしもう子供じゃないのよ!赤ちゃん見たく“阿”づけじゃなくてちゃんと春雲、て呼んでよ…それに阿春て、啊切(アチェ)みたいでかっこ悪いんだもの」
哥は、今度は理解を示すように笑い、
「じゃあ、私を“兄上”と呼べるようになったらちゃんと名前で呼んであげるよ」
「本当?」
「ああ、それまでは小さな啊切(くしゃみ)みたいな名前で我慢するんだ」
「もう、香…兄上のいじわる!」
そこで、青年は二階の窓から少女をねめつける陰に向って言った。