飃の啼く…第24章-15
「貴方は狗族八長の妻でしょう。誇り高き貴方が、私なぞに頭を下げる必要はありません」
「じゃあ―」
「覚の覚義にお願いした通りです。私は、貴方とお話がしたかった」
彼女は、音もなく動いて、格子に少し近づいた。
「その、澱みというのは、なんですか?」
私は面食らった。そして、思い至って説明してやった。
「去年の秋に、その、穢れの実体化した…つまり、あんたみたいなやつらが…多分、さっき話してたあんたと対立する奴らなんだと思うけど…それが名乗り始めた名前よ…随分前から組織化して、暴れまわっていたのにようやく名前がついたの」
「では、ほんとうに彼らは覚悟を決めたのですね」
「覚悟?何の」
彼女はふと考え込んで、それから適当な言葉を探し出した。
「“個性”を得―あるいは、個性を持つが故の滅びに際する覚悟です」
私は笑い出しそうになった。
「滅びる覚悟?逆でしょ、あいつらは片っ端から滅ぼしてるんだから」
彼女は頭を振った。
「いいえ、名前を持つということは、その名によって個性を得ると同義です。個性、すなわち、その唯一性が、彼らに存在と滅びの意味を与える」
「はぁ?」
高校生にわかる日本語で話して欲しい。こう見えて私は、成績優秀なほうではないのだ。国語の試験の記述問題の解答欄には、いつも“?”がついて返ってくる。
「そうですね、貴方は蚊を殺したことがあるでしょう」
うなずいた。自分が蚊も殺さぬ顔をしている、とは言うつもりも無い。
「しかし、たとえばそれが―たとえば“花子”と名のついた、人間並みの思考能力を持つ一匹だったとしたらどうです?」
想像するのは難しくなかった。ちくりと胸を刺すものがある。
「そう。貴方が殺したのはただの生き物としての“蚊”であるだけではない。花子という名の、この世に一匹しか居ない蚊です」
澱みが名前にこだわる理由がわかった。そう、彼らは存在―と滅び―に、意味が欲しいのだ。でも、何故?わかりかけているのに、手が届かなかった。
彼女が口を開いた。
「私はすでに、貴方がたの言う“澱み”の類ではない。しかし、それ以外のなんであるかがわからない…。十年以上も自分が何者なのかを問い続けてきましたが、答えは出なかった。しかし、代わりに自分が強く望むものがあることに気づいたのです」
それは何、と、私は聞いた。
「死です」
見開いた私の目を、面白がるように彼女はのぞきこんだ。