飃の啼く…第24章-14
「お礼がしたいのだけれど、その時間もないかしら」と。
「あなたは私に、名前を授けてくださいました」
うっすらと汗の滲む顔を時々痛みにゆがめて、彼女はそれでも微笑んでくれました。
「それじゃあ足りないわ…この子を助けてくれたんだもの…」
「では、いずれその子に借りを返していただきましょう。それまで生きながらえることができたのなら」
というと、何も言わずにお笑いになられました。
「約束よ」
私はそれきり、別れの言葉もなしに、彼女の主治医の意識から消え、二度と彼女にまみえることはありませんでした。
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澱みは、私の頬を伝うものを不思議そうに眺めた。
「貴方の母上は、やはりお亡くなりになられたのですね」
私はうなずいた。
「残念です…」
初めて、彼女が私に見せた表情らしい表情は、おそらく恥ずかしさだったのではないだろうか。
「人間が羨ましい。こういうとき、私にも流す涙があれば良いと思います」
暗闇に慣れてきた目が、牢の壁に綺麗に整頓しておいてあるおびただしい数の本を捉えた。
「それで、どうして青嵐会の本部に、貴方がいるの」
それは、と、彼女は再び顔を上げた。
「あなたに逢うためには、他の狗族に殺されてはならないと思ったからです。私は、彼女の病室に看護婦が来る前にその場を立ち去り、ここにやってきました。私は、私を滅ぼさずに匿ってもらうかわりに、あるものを差し出しました」
記憶のフラッシュバックが炸裂した。よごれた桶、腕、そして…
あの目。私の心に焼きついたあの眼差しが、私を見つめている。
「ある、もの…?」
「私はこうして労に篭り外界との接触を断ち、知識を得、青嵐会の狗族が行う、澱みの研究に貢献できるように沢山の本を読みました。そして、貴方の訪れを待った」
確かに、彼女の牢は広く、その半分以上が本で埋まっていた。私が生きてきた間、彼女はずっと、ここで私を待っていたのか?期待に満ちた目は、紛れもなく私を写している。何を求められるのか想像がつかない。私はゆっくりと膝を折って、彼女と目線をあわせた。
「あんたは…私に何をしろって言うの。私は、あんたの仲間…澱みをたくさん倒してきた…数え切れないくらい、たくさん…そんな私に、あんたは何を望んでるの?感謝すればいいの?謝ればいいの!?」
少しだけ、彼女は目を細めた。笑顔と呼べなくも無い表情だった。