飃の啼く…第23章-2
狗族の生気を2人分は吸ったであろう人型の澱みが、体中の触手を主婦に巻き付けて捕らえていた。
「やめろ…っ!お前、何をしている…!」
毛虫が這う音に耳を澄ませたら聞こえるであろうぼそぼそした音にのせて、澱みが話した。
『何ってぇ〜人間のぉ〜、魂を吸っているんだよぉ〜』
「ふざけるな!」
次第に、女性の目の焦点が合わなくなってくる。恐怖に震えていたはずの身体は、いつの間にかだらりと力が抜けて弛んでいた。
『お前らがたぁ〜くさん殺したんだからよぉ、きっちり借りを返してるだけさぁ〜。』
女性の身体がゆらゆらと揺れ始め、首が勢い良く前に倒れた。首から上がそのまま転がり落ちるように、がくんと力が抜ける。
「その人を離せ!」
恐怖に駆られて叫んだのは私だった。このままでは、何の関係も無いあの女の人が…!
「お前達が欲しいのは私の…狗族の生気だろう!違うのか!」
真っ黒なそいつのからだの、頭部にある焦げ穴のような口が嬉しそうに歪んだ。
『えぇへへへ、怖がってるぅ…“救世主”が女一人死ぬのを怖がってるぅ…。』
―あたりまえじゃないか…その人は、誰かのお母さんかもしれないんだ…小さな女の子、それとも男の子の…その子たちから母親を奪う…見殺しにする…そんなこと、出来るはずが…
「私の生気をやる!だから…」
思わず叫んだ私の、言葉を遮ったのは穏やかな舌打ちだった。
「チッチッ…いけないなぁ、八条さくら君…面白みが無さ過ぎる…つまらないことを言うな…」
―!?
後ろを振り返ると、背の高い男の姿が映った。見たことは無い…でも、澱みだとすぐにわかった。その眼窩におさまる瞳はかつて見た擾のものと違って普通の目だったけれど…その瞳は何の光も称えない完全な暗黒…完全な黒い点だった。
「ご婦人を放して差し上げろ。おふざけが過ぎるぞ。」
澱みが言うと、さっきの黒い塊が全ての触手を収めた。女の人がリノリウムの床にくず折れて、どさっと言う音がした。澱みに魂を奪われると一時的に肉体まで消滅する。女性の体はまだどこも消えていないから、完全に吸い取ってしまったわけではないのだろう。
私は、その場を動けない。目の前の澱みに、影を踏まれたように身動きが取れなくなっていた。
「あんた…何?」
「ふふっ、“何”とは…実に無礼だ。実にきみらしい。身動きが取れないのにそうやって粋がる所がね」
ねちっこい言い方が耳に残る。耳を取り外して洗いたくなるような嫌な声は、黷のそれとよく似ていた。
「牛溲馬勃(ぎゅうしゅうばぼつ)に等しい女の命と、救世主たる己の命を天秤にかけるとは…愚かで…そして好ましい」
「その口の聞き方、どうせ獄に教わったんでしょ」
粋がってるって?余計なお世話だ、下衆野郎。