The kiss and the light-20
「人間の世界を乗っ取っていい事なんてあるものか。神は人間を支配するためにあるんじゃない…あくまで人間の繁栄を助けるために居るだけだ」
「じゃああんたは神様ってわけ?」
面白がる口調から察するに、講義はうまくいかなかったらしい。
「いや、どの神族も信仰を失って、最近はどちらかといえば妖怪に近い。だが完全に落ちぶれちゃ居ないさ」
日本の株価の話でもするみたいに、彼は言った。いまひとつ腑に落ちない中谷は、相槌を打つでもなく、反論するでもなく、いつか“理解”がぽんと空から落ちてくるまで結論を先延ばしにすることにした。本当の話なのだろう。彼が語る話は、疑う気持ちも起こらないほど真実なのだとわかっているのに、実感は湧かなかった。
「狼男で、神様で、切り裂きジャックの知り合いで―」
紅茶に温められたため息をつく。
「大変だ」
「まあな」
そしてしばらく、手持ち無沙汰な沈黙が続いた。思いついた話題は、口にするまでも無いような気がして、喉の下のほうで立ち消えた。
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父は、生物学的に言えば確かに俺の父親だったが、父親らしいことというものは何もしなかった。おそらく、子弟の間柄ですらなかった。あえて二人の関係を挙げるとすれば、自分は父親にとって本のようなものだったのかもしれないといえるだろう。彼が学んだことを書き写した写本だ。刺青も、魔術の知識も、憎しみも、記憶も…全て、俺が成長するにつれて自分で書き記すはずだった真っ白な本に、親父が先んじて何もかもを書いてしまった。俺はよくそう思ったものだった。自分は、残った余白にちまちまと俺の人生を書いているんだと。
しかし、その父が“書き残した”物の中で、唯一復讐に関係ないものがあった。
英国を離れた父の粗末な屋敷があったアイルランドの北西部は、厳しいという言葉がよく似合う土地だった。狼に姿を変える訓練の最中には、俺はその土地を、どこまでも掛けて行くことを許されていた。
荒涼とした大地を、ただひたすらに。
波が岸壁にぶつかり砕けるたびに、新しい潮の香りが風を染める。
何処までも続くように広がる、薄い土の層。裸足が、その下に眠る頑強な岩肌を感じる。
そして不意に、破り取られたみたいに地面は途切れる。
目の前には渦を巻く海の吐息。
そして優しい夕映えの空。
雲のヴェールに隠れた太陽は、燃え上がる真珠。
顔をなぶる海風が不必要なものを、身体から剥ぎ取って、千切り取って、背後の夕闇にさらってゆく。
五感を広げて、目を閉じる。
とても安らいだ気持ちで。
それはおそらく、かつて父が同じように感じたものだったのだろう。そして、愛という感情を残さなかった父からの、たった一つの贈り物だったのだろう。そう思うことに、俺はしている。