和州記 -宵二揺ルル紫花--3
「折角昔馴染みにあったんだ。そんな仏頂面を見せるな」
「ん…」
しかし釈然としない様子で、一紺は酒をぐいと呷った。
空になった杯が、しかしすぐにまたいっぱいになる。
「相変わらず良い飲みっぷりね」
傍らの遊女がそう言って、徳利を手に笑った。
そして彼女は竜胆の杯にも熱い酒を注ぐ。
「ほらほらぁ、もっと飲んで飲んで!」
戸惑ったように竜胆は、注がれた酒を見つめた後、口をつけた。
そんな竜胆の様子を眺めていた一紺は、何ごとかぼそりと呟いて、再び酒を呷る。
それから暫く他愛ない会話を交わしながら酒を飲んでいた彼等であったが、不意に一紺が立ち上がった。
「一紺?」
「――俺、もう行くわ」
酔っているのだろうか。
酒瓶のひとつを手に取って、一紺はふらつきながらその場を去った。
竜胆も慌てて席を立つが、周りの遊女達にその手を掴まれる。
「竜胆ちゃんはもうちょっといましょうよぉ〜!」
「そ!旅のこととか一紺のこととか、色々聞きたいしね」
有無を言わせない彼女達に、竜胆は苦笑を浮かべて頷いたのだった。
(……何なんやろ)
大して酔っているわけでもないのに、どうにも気分が悪い。
一紺は紅梅に案内されていた部屋へ入ると、布団の上にその身を横たえた。
横になり、部屋に飾られた可愛らしい紙花を見ていると幾らか気分も紛れたが、それでも気分が悪いことに変わりはなく。
目を瞑り、一紺は心の内で呟く。
(早よ寝てしまお)
無理やりに目を閉じた。
――一体、どのくらい走っているのだろう。身体も足も、もう耐えられそうにない。
一紺は何かに追われるように走っていた。
何に追われているのか、その正体は分からない。
しかし、ただどす黒い闇が後ろから自分を追いかけてくるのを感じ、彼はそれから逃げるように走り続けていた。
『はあッ…はあッ』
しかしもう限界だ――そう思った瞬間、一紺は足元の石か何かに躓いて派手に転んでしまった。
不気味な闇が一紺の足や手を絡め取る。
闇に飲み込まれ、彼はそうして気を失ってしまった。
気が付いた時には、一紺は一人、薄暗い洞窟の中をさ迷っていた。
一体どこなのだろう。暗く湿っていて、かびた臭いが鼻を突く。
誰かを探すでもなく、出口を探すでもなく、ただあてもなしに一紺はその洞窟の中を歩き続けていた。
あれだけ走ったにもかかわらず、不思議と疲れはない。
また、派手に転んだのに身体には擦り傷ひとつなかった。
そこで一紺はこれが夢ではないかと気付く。
(これは、夢や)
擦り剥いた筈の膝と腕に傷がないのを確認し、一紺ははっきりとそう感じることが出来た。
――しかし。
(夢なら、早よ覚めな)
いくら夢とは言え、先程のような得体のしれないものに襲われるのはこりごりだ。
一紺は心の中で呟き、早く目の覚めることを願った。
この夢の中の感覚でおよそ半刻ほど歩いていた一紺は、やがて微かな人の声を聞いた。
『……?』
ぼんやりした頭で声のする方へと向かう一紺。
彼は、そこで信じられない光景を目の当たりにした。