MemoryU-5
トイレに向かう途中、楓の母と遭遇した。
『あら、涼介君。どうかしたの??』
『おばさん…。ちょっとお手洗いに行こうと思って…』
俺は口をつぐむ。彼女はそんな俺の顔色を伺い、深くため息をついた。
『あなたを楓のそばに居させたのは間違いだったわね…。本当にごめんなさい。』
楓の母が心からすまなそうな顔をしたので、俺は困ってしまった。
『いえ…そんな。それにおばさんに頼まれなくても、俺はずっと楓のそばに居たと思います。』
『そう…。こんなに想ってもらえる楓は幸せ者ね…本当に。』
楓の母はそう言って、どこか遠くを見る。視線の先にあるものは、きっと彼女にしか見えないだろう。
『病院に移そうが、移さまいが、もう死ぬことに変わりはないのに、楓には少しでも長く生きてもらいたくて…。』
『俺もおばさんと同じ気持ちです。』
楓の母は小刻みに何度もうなずいた。
『それに俺、凄く不安なんです。…楓が俺の事を忘れて以来、もう俺は楓にとって恋人じゃない気がして…。』
涙がこぼれ落ちそうになる。気づけば想いが心の内側から溢れ出していた。
『…涼介君。逃げたくなったら、いつでも逃げなさい。私も楓も、あなたを恨んだりしないわ。』
ガックリと肩を落とした俺に、彼女の手が優しく触れる。
俺が落ち着くまで、彼女は背中をさすってくれた。…きっと楓のお母さんも同じ気持ちだっただろう。たった一人の可愛い子供が、生まれた時から17年間ずっと大切に育ててきた子供が、自分の事を忘れてしまったのだ。その悲しみは計り知れない。
『おばさん…もう大丈夫です。そろそろ楓のところに戻ります。』
楓の母は微笑み、うなずいた。そんな彼女の瞳は憂いと疲れを含んでいる。
『あなたまだ17歳よ。そんな一人で抱え込まないで、辛くて耐えられなくなったら、いつでも私のところに来なさい。もっと誰かを頼りなさいな。』
彼女の言葉に俺はうなずく。
『本当にありがとうございます。』
俺は深々と頭を下げる。
『あら、お礼を言いたいのは私の方よ。楓のそばにいてくれてありがとう。』
彼女は再び微笑んだ。
楓の部屋の前で深く深呼吸する。扉の向こうには残酷な現実が待っているだろう。
脳裏に浮かぶ温かみのない楓の目…思い出すだけで身の毛がよだつ。
俺はもう一度大きく息を吸った。現実に負けちゃいけない。俺は扉を大きく開けた。
…ドアノブを掴んだ俺の手が止まる。
『楓…??』
楓が俺を見て微笑んでいた。
『おかえり…涼介。』
彼女の優しい眼差しが俺の体をなでる。俺は慎重な足取りで楓のそばに寄った。
『俺が分かるのか??』
楓はゆっくりと頭を上下する。
『分かるよ。涼介…寂しい想いさせてごめん。』
俺は首を横にふる。涙が次から次へと溢れだし、床を濡らした。
倒れこむようにして、俺は楓と抱き合っう。
『楓っ…本当に良かった。』
『うん…。涼介、逃げ出さずに、ずっと私の側にいてくれてありがとう。』
楓の瞳からも涙が溢れ出す。
『楓が記憶なくして以来、俺、もうお前の彼氏じゃない気がして…。あれ以来お前が冷めた目で俺を見るようになったからっ……』
頬を幾筋も幾筋も涙がつたう。
『何言ってんのっ…涼介はずっとぁたしの彼氏だよ!大大大好きで、誰よりも大切なあたしの彼氏だよ!』
楓が声を張り上げた。さっきまでロウ人形みたいだった彼女の体…今はとても熱い。
俺はそっと楓の頬に手をかけた。それを悟った彼女はゆっくりと瞳を閉じる。目を伏せた瞬間、彼女のまつげから雫がこぼれ落ちた。
そっと唇をかさねる。柔らかい感触が俺を包みこむ。春の雪解けのように、彼女のじんわりとした温かさが悲しみや不安を溶かしてゆくようだった。
俺はそっと唇を離す。目を開けた楓と、視線が絡み合った。