エス-44
あの時エスが言ったのは加藤との結婚だった。
他は何もいらないから、ずっと一緒に居て欲しいと、それだけ言った。
加藤は二つ返事で受け入れ、次の日には婚姻届を持ってきた。
そこで初めて知ったのだが、エスは十八だった。
目の見えないエスの代わりに律子が代筆し、その日の内に加藤は役所に提出した。
安物だけど、と買ってきた指輪を次の日にはエスの薬指に嵌め、自分も同じデザインの指輪を嵌めた。
退院を待って結婚式を知人だけで上げた時、エスは初めてみんなの前で涙を見せた。
その場に居合わせた律子と加藤以外の面々は驚き、エスも人間だったと口々に洩らした。
「で、今日、私を呼んだのは思い出話をするため、ですか? 」
律子がコーヒーカップをソーサーの上において、加藤を見た。
加藤が首を振り、テーブルに無造作に置いてあった茶封筒から分厚い本を出す。
インクの匂いがまだ強いその本を律子に向かって差し出す。
律子がそれを受け取り、タイトルを見て顔を上げた。
「エス……って、加藤さん、まさか」
加藤が頷く。
「お前には言ってなかったんだけどな、エスの遺言だったんだ。自分の事を書いて本を出して欲しいって」
ポケットから新しい煙草を一本取り出し、火をつける。
煙を吸って吐き出し、律子の言葉を待った。
「……遺言? 」
律子がページをめくり、加藤が灰皿に煙草の灰を落とした。
「だから、お前にも迷惑が掛かるかも知れないと思ってな。発売前に渡しておこうと」
口元に煙草を持っていきながら加藤が答える。
「そうですか。……エスが」
律子は本を閉じて胸に抱いた。
「加藤さんの本は絶対売れるよって、言い残したんだぜ。……どう思う? 予知、だったのか」
加藤が煙草を押し消して呟いた。
律子は困った顔をして首を振った。
「さぁ……、私たちには見えませんから」
まったくだと加藤が頷いた。
「そうだな。……飯、食ってくだろう? 今日は一周忌なんだし」
手を伸ばし伸びをしながら加藤が言う。
「良いんですか? ご馳走になります」
律子が笑みを浮かべて頷いた。
外はすっかり夕方になっていた。
「じゃ出来るまで読んでてくれよ。……エスの大好きだったものでも作るか」
加藤は立ち上がりキッチンへと消えた。
律子はその背を見ながら本を開く。
一ページ目にはこう書かれていた。
『この本を大好きな加藤さんと律子へ』
律子にはそこにエスの笑顔が見えた。
<終>