エス-43
「……もう、見えないのか? 」
加藤の言葉にエスが小さく頷いた。
笑顔を向けていたけれど内心は不安で堪らないはずなのだと、加藤は思った。
普通の人になったのに、それはエスにとって不安でしかないのだと。
「そうか。普通になったんだな」
加藤はそう言うのが精一杯だった。
「……うん。いいの。これで良いんだよ」
だから、言えなかった。
お前の頭の中に血が溜まっていて、いつ死ぬか分からないなんて。
口が裂けても言えなかった。
「何が良いんだ? 」
加藤がゆっくりエスを自分の体から外して、手を握ったまま、椅子に座った。
エスは首を傾げ、加藤の顔よりすこしずれた所を見つめていた。
「お前の我侭だよ」
笑みを浮かべながらエスの頬を片手で撫でる。
エスが笑う。
エスがいつ死ぬか分からないなら、自分はそのエスの残った人生を幸せにする為に生きようと、加藤は思っていた。
だから、エスがおずおずと言った我侭をあっさりと飲み込んだ。
「本当にこの時のエスは綺麗でしたね」
窓際に置かれたテーブルに座って出されたコーヒーを飲んでいた律子がぽつりと洩らした。
あのマンションのテーブルで律子と加藤は座っていた。
部屋にはたくさんの写真が飾られ、その中の一枚を見ながら律子は洩らしたのだ。
「ん、そうだな。あの時が一番幸せそうだった。……女の子なら憧れるんだろう? 」
加藤は伸びた髭に手をやり、撫でながら、自身もコーヒーを口にする。
「……嫌味、ですか、加藤さん」
律子が上目遣いで軽く加藤を睨んだ。
あれから5年が経っていた。
律子は無事、大学を卒業し就職も決まった。
加藤は雑誌社を辞め、エスの援助を受けてレストランを開業し、軌道に乗った。
律子がこの部屋を訪れるのは一年ぶりになる。
一年前、エスはこの家の寝室で加藤と律子に見守られながらひっそりと息を引き取った。
覚悟が出来ていた二人は最後までエスを笑顔で送り、エスの手を握り続けた。