エス-22
「とにかく、エスさんはマンションに行かれた方が良いと思うんですけど」
一同は押し黙り、エスだけが頷いた。
木村が店のドアを開けて外を覗く。
外は静かな喧騒に包まれていて、車のクラクションが聞こえた。
「大丈夫みたいです」
店の中に声をかけドアを手で開けたままにする。
加藤とエスがすばやく外へ出る。
「気をつけて。何かあったら連絡ください」
木村が店の番号が載ったカードを二枚、加藤に渡した。
加藤は小さく頷くとエスの腕を取った。
エスは加藤の顔を見ると、大丈夫だよ、と笑う。
鈴木を含め他の従業員も出てきて二人を見送る。
「じゃあ行くか」
加藤が歩き出そうとした時だった。
エスは加藤の腕を振り払い、木村の元へ寄る。
その様子を全員が困惑した表情を浮かべて見た。
エスは木村に向かって手を合わせた。
「木村さん、お願い。律子には連絡先教えてないの。……ここに来るはずだから教えてください」
木村は納得した顔をして大きく頷き任せてくださいと笑った。
その顔を見てほっとしたのかエスは木村にありがとうと呟き、それからもう一つ、と、木村の耳元に口を寄せて一言二言話しをしていた。
きっと未来のことなのだろうと、加藤は眺めている。
木村はエスの言葉に目を開いて驚き、大きく頷いた。
エスは木村に抱きつき、小さな声で
「今までありがとう」
と呟いた。
エスは加藤の手を握ると足早に木村の店を離れた。
二人はその後、渋谷から電車に乗っていた。
幸い、誰にも気づかれなかった。
当然と言えば当然で、エスはその未来も知っていて、そうならないようにしていたのだろう。
加藤はエスが手を引くまま付いて行った。
二人が着いたのは渋谷からそう遠くない駅から徒歩五分ほどのマンションだった。
高層マンションと言って過言がないその建物の最上階の南側の角部屋。
決して安くないその部屋の鍵をエスはポケットから出した小さな鍵で開けた。
ドアを開けるとあまり使われていない部屋の匂いがした。
ペンキや壁紙を張りなおした後の独特の匂いだった。
「何にもないけど、あがって」
エスはあれからずっと繋いでいた手を離した。
すこし寂しそうにその手を見つめ、靴を脱いだ。
玄関から伸びる廊下を先に歩く。
加藤は何も言わずに靴を脱いで後に続いた。
3LDKのマンションには家具はほとんど揃っていた。
それも価値の分からない加藤が見ても分かるほど高価な物だった。
けれどそれのほとんどが新品同様使われていなかった。
広いリビングの南側は一面が窓ガラスになっていた。
渋谷は東京の景色が一望出来た。
加藤が、置かれている応接セットにも、景色にも呆然と、立ち尽くしているとエスは笑みを浮かべながら座って、と動作で示した。