投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

はるかぜ
【その他 恋愛小説】

はるかぜの最初へ はるかぜ 2 はるかぜ 4 はるかぜの最後へ

はるかぜ-3

日常に戻る、それだけなのに、それだけで、私の幸せは、崩壊した。『暁』の事務所はようやく我が家へ辿り着いた。学校から帰ったら知らない人の靴があった。胸が鳴る。心臓の鼓動が早くて、靴を脱ぎ捨てて、廊下を歩いた。居間をの襖を開けても誰も居なくて、隣の客間の襖を開けると冷たい目をした人がいた。祖母と母と姉が私を見て、俯いた。春風は居なかった。

「お嬢さんが『暁』を保護してくれたんですね」

冷たい目をした男は仮面のような笑顔を向けて私に言う。ねぇ、春風は? 喉まででかかった言葉が、喉仏につっかかる。母は、そんな私を察したように言った。

「縁側よ」

「お嬢さんにはとても感謝して……」

男の声は母の声をさえぎるようだった。だから私も男の言葉の途中で居間に戻って障子を開けた。客間で男と母が言い争う声がする。訴えないだけマシって何ですかって。春風は体育座りをして膝に額をつけて俯いていた。

「ただいま」

いつものように言う。いつものようにしたかった。春風が居なくなるなんて、信じたくなかった。あの人は連れ戻しに来たんでしょう?って聞きたかった。春風は動かない。陶器で出来た置物みたいにじっとしている。鞄を置いて、それで、そっと春風の頭に手を伸ばした。

「ただいま」

パーマの取れた髪を撫でる。ふわふわの猫っ毛。

「ただいま」

撫でている私の手が擦れる。目に涙が浮かんで瞬きをしたら溢れて流れた。

「ただいま」

馬鹿みたいに繰り返す。春風は顔を上げてくれない。違うよ、私が言ったんじゃないよ。誰にも言ってないよ。ねぇ、春風、顔をあげて。言葉の代わりに出たのは涙。頬を次から次へと伝う。終いに頭を撫でる事も出来なくなって両手で顔を覆って泣いた。ぺたりと、冷たい床に座り込んで。わんわん声を上げてしまった。言い争う声が止まり、母が慌てて近づいてくる。私は納まりがつかなくなって自分で止められなくもっと大声を上げて泣いた。小さい子のように。

母が障子を開けるのとそれは同時だった。春風が私の体を引き寄せるように抱き寄せた。母は立ったままそれを見ていたらしい。後に来たあの男は慌てて引き離そうとしたらしかったけれど、姉と祖母はその男を取り押さえたと後から聞いた。

私は抱きしめられても泣きやめなくて春風の腕の中で暴れた。

「離してっ、離してっ! 」

両手で春風の胸を押し戻そうとしても叩いても彼は離してくれなかった。ますます私は強い力で抱きしめられて、諦めて彼の胸に顔を埋める頃には、母も男も祖母も姉もその場からは居なかった。男は祖母と姉の力で無理矢理外へ出され、本人が戻るまでは居させると言い放ったらしく、母は障子を閉めて夕ご飯の用意を始めていた。それでもまだ私の涙は止まらなかった。春風がどこかに行っちゃう。わかってた事なのに。彼は私を抱きしめたまま離さず、背中をさすってくれた。彼の呼吸が聞こえて心音が聞こえて、ゆっくりと、私は泣きやんだ。すっかり外は暗くなっていて雨戸を閉めていない窓は結露していた。帰ってきた父が事の顛末を聞き、そうか、の一言で済ますのも、障子の向こうのどこか遠い世界のような感じで聞いてた。夕食も終わって、すっかり泣き止んでいたけど、私達はずっとそうしていた。

 夜も更けて、母がそっと障子を開けて小声で言った。

「もう遅いわよ。おにぎり作っておいたから食べて寝なさい。あの男は帰ったから大丈夫よ」

カタンと障子が閉まる音がして、また静けさが戻った。春風の腕の中は気持ちがよかった。でも、もう居なくなっちゃうんだよね。

「……ねぇ」

鼻詰まりのひどい声で小さく私は言った。春風の胸元にうずまったまま。彼が腕の力を緩める。私は顔をあげ、涙で汚れたまま彼を見た。春風の頬にも涙の跡がうっすら残っていて。可笑しくなって笑みを浮かべた。

「……ねぇ、ずっとここにいてくれる?」

その時の春風の困った顔は今でも忘れない。
彼は私の言葉に涙を流して首を振った。
それからまた私を抱きしめて

「……ごめん」

と小さな声で呟いた。その声はやっぱり「Rain Empty」の『暁』だった。

「……出てって」

今度は本当に突っぱねるために暁の胸を押し返した。突然の事で彼は後ろによろけた。そして傷ついた顔を一瞬して私の顔を見てそれが心配する顔に変わった。私は思いっきり睨んでいた。止まった涙をまた流して。感情を殺そうとした結果、溢れた。目が腫れて痛かったのに、もう涙は出ないと思ったのに、また流れていた。

「うそつき、出てって、もう顔も見たくない」

私の中で春風はもう居ない。目の前にいるのは嘘吐きの暁だ。暁は私を慰めようと近寄る。触れられるのも嫌になって座ったまま後退る。彼は立ち上がり、私を無理矢理抱きしめた。今度は本当に拒絶するために私は暴れた。彼の顔にいくつも引っかき傷をつけて、両足も使って。夜中だという事も忘れて大声を出して。でも、彼の一言で私は止まらざるを得なかった。

「好きだよ」

ずるい言葉だと思った。
次の日、春一番が吹いて、春風は去っていった。
そうして春が来た。



はるかぜの最初へ はるかぜ 2 はるかぜ 4 はるかぜの最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前