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はるかぜ
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はるかぜ-1

 春風にあったのはもうすぐ冬が終わる夕方の単線列車の下り方面行きだった。その日、忘れ形見のように降った雪で授業は早めに終わり、皆が慌てて自転車や原付で帰る中、自転車に乗れない私はいつものように教室で一時間待ってから電車に乗った。そこに春風が居た。都会の匂いをさせて真っ赤な目をしてよれよれのパーカーを着て、端っこの席で、海を見ていた。縮れた髪に埋まる後頭部をずっと見ていて、振り返った顔に見覚えがあったけれど、その時は分からなかった。終点で私が降りる時に彼は一緒に降りた。興味が沸いて彼の後を着いて行ってみても同じところをぐるぐる回るだけで傘を持たない彼は雪まみれになっていて、その姿が雪の中に消えてしまいそうで、まるで死に場所を求めて猫が歩いているようで、いたたまれなくなって、彼のパーカーの背中を掴んだ。

「ねぇ、家においでよ」

彼は小さく頷いた。それから振り返り私を見た顔は涙でぐしゃぐしゃだった。雪と涙が混じった顔は綺麗だった。私の家は祖母と両親と姉の五人暮らしで皆田舎の人だから気にしない人ばかりで、彼が混じっても彼を他人のように扱わなかった。もともと漁師町だからそんな風なのかもしれない。その日、風呂を済ませた後、食卓の席で彼の事を一番早く気づいたのは祖母だった。

「口が利けないんだろう」

しばらく見ててから祖母が口を開いて皆が驚く中、彼は頷いた。どこかで見た事があるよね、という話にもなって姉も母も私も、思い出せなくて、彼も困った顔をしていた。名前は? とみんなが尋ねると電話の側のメモ帳を取ると鉛筆で『春風』と書いた。中国人かと思ったけれど、違うらしくて、上にふりがなを振った。『はるかぜ』と。それが偽名だとみんな気づいていたけれど祖母は満足したように、じゃあ春ちゃんだねぇ、なんて言うから、それで良いってなった。

春はもうすぐ目の前にあるけれど、春風はまだ私の家にいる。


 朝、仏間に泊まっている春風を起こしに行くと綺麗に布団を畳んだ後だった。

「おはよう」

襖を閉めて畳みに正座する。春風は私の方を向いて頭を下げる。彼のおはようなのだ。びっくりしたのだけれど、彼は一時的に声をなくしたらしく、耳は聞こえている。量販店で買った黒のタートルネックを着ている春風は文句無くカッコいい。だいぶ伸びた髪を片手でかき上げる。私が喋らないと二人の間に会話は無くて、静かだ。

「眠れた? 母さんがご飯出来てるからいつでもどうぞって」

春風の手をそっと触る。春風は払う事無く、じっと私の手を見ていた。暖房の無い部屋で寝ていた春風の手は冷たい。じわりと冷たくなる手。春風は暖かくなっているかな。顔を上げて春風を見る。細めた目で私を見て空いた手で頭を撫でてくれた。触れられる先から髪がすべすべになっているような気がする。

ほんの一ヶ月くらい一緒に居ただけで、私は、春風を好きになっている。
あの雪の日一目惚れだった。

ひとしきり撫で終わると私は立ち上がり春風と一緒に居間に向かう。居間では父が新聞を広げたまま私達を待っていた。家は時間が同じ人間は同じ食卓につく。祖母が春風を見てテレビを消した。卓袱台の上には旅館の朝ごはんのような伝統的和食が並び、私達は正座した。父は新聞を畳むと春風を見て口ごもった声でおはようと言う。春風も頭を下げた。この席に居ないのは仕事が不定期な姉だけで全員が揃ったところで母が炊飯器の蓋を開ける。炊き上がったばかりの白米の匂いにすっからかんの胃が歓喜の声を上げた。テレビが消えた居間は思いのほか静かで春風が来る前と比べるとがらっと変わった。春風が来て三日後、私達は、こうやって朝ごはんを食べている時、春風の素性を、テレビから知った。

彼は十代に圧倒的人気を誇るグループ「Rain Empty」のヴォーカル、暁(あかつき)。
つまり、芸能人、だった。

それでもこうやって一緒に朝ごはんを食べているのは本人が出て行かないからで、家族が気にしないからと、幸福にもまだ春風の正体がばれていないから。だから、まだ彼は『春風』で、居候なのだ。最初に私達が気づかなかったのは一家揃って芸能人に疎かったことと、『暁』はもっと清潔で綺麗でカッコいいけれど、『春風』はパーマが取れた前髪が目元まで伸び、染めている髪もまだらになっていたからだと思う。もっと『暁』のファンだったら早く気づいたかもしれない。祖母はその朝、今日と同じようにその場でテレビを消した。その日からテレビを見ない日が続いている。

一番早く食べ終わるのは父で、箸を置くと同時に母はお茶が入った湯のみを父の前に置いた。亭主関白というのは少々古いかもしれないけれど、父は我が家で二番目に偉い。


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