はるかぜ-2
私は沢庵を噛み砕きお味噌汁と一緒に流し込むと、ごちそうさまと言い立ち上がった。七時十五分。この時間に出ないと電車は行ってしまう。春風は半分ほど食べた所で、私を見上げた。
「行ってくる」
家族と春風にそう言って各々のいってらっしゃいを聞いた。もちろん春風の分も。彼のは見上げた視線だけだけれど。茶箪笥に立てかけてあった鞄を取り、襖を開ける。ひやりとした廊下の空気。廊下に足をつくと床が軋んだ。片手で襖を閉め、玄関に向かう。母が後から出てきて、割烹着で手を拭きながら、早く帰ってらっしゃいねと見送ってくれた。言われなくてもそうするつもり、と、思いながら、うん、とだけ返事をして外へ出た。鞄からマフラーを取り出し首に巻く。まだ、朝の外は寒い。
学校では連日のように『暁』の失踪について噂していた。テレビでも毎日流しているらしい。このままじゃ解散も視野に入れてるんじゃない? なんて声もある。春風はこんな風に皆が話してるって知ってて、どうするんだろう。
学校からなるべくまっすぐ帰る。もともと寄り道をする方じゃないけれど、もう、随分、町へも行ってない。町っていうのは市の中心部分でそれなりに都会のようになっている。新幹線の駅もあるし、CDショップや大きな本屋もある。ファミレスやチェーン系列のフード店もある。仲の良い友達に誘われても、最近は断りっぱなしだ。
「ただいま」
玄関を開けると母が御勝手から顔を出した。母は手に泥のついたねぎを持っている。きっと裏の家庭菜園から取ってきたばかりの物だろう。
「おかえり。春は縁側よ」
母は春風の事を春と呼ぶ。姉もそう呼ぶ。
「ん」
最初、春風がすぐに帰ってしまうんじゃないかって心配して毎度確認していたからか、母は私の姿を見ると春風の場所を伝えるようになった。ローファーを脱ぎ靴箱にしまうと冷たい床板の上を歩いて一階の居間の襖を開けた。祖母がちょうどお相撲を見ているところで顔を向けずにおかえりと言った。どもう面白い取り組みらしい。その祖母の後ろを通って障子を開ける。磨き上げられた光る床の上に座布団を引いて、春風はあぐらを掻いて、庭を見ていた。亡くなった祖父自慢の庭。
「春風」
障子を閉めて、声を掛けるとはじめて私に気づいたように彼は振り返った。鞄を置いてマフラーを取り、彼の側の床に座る。太ももにひんやりと床板が触って鳥肌が立った。彼はじっと私を見たまま動かない。
「ただいま」
そうしてようやくぎこちなく彼は私の頭を撫でる。
春風は何かを東京においてきたような気がした。大切な物を。だから私よりご飯を食べるのが遅くて、いつもぼーっとしていて、何にも興味を示さなくて、家から出なくて、いつも庭を見てて、そして、意思表示をしないのだ。
「ただいま」
もう一度言う。春風をこっちに引き戻すために。私だけでなく、祖母も母も姉もそうだけれど、こうやって春風に言わないと、彼は、ぼーっとしたままだ。それは段々とひどくなる。最初、病気ではないかと心配したけれど、彼は唯一それだけは違うと、言った。紙の上で。それから迷惑にならないようにする、と。
「今日は何してたの」
外を歩いてきた私の手より冷たくなっている春風の手を取って握る。大きなそれでいて細い手。すこしでも温もりが伝わればいいなと思う。私の問いに彼は庭の方を向いて、また私を見た。きっと一日中また庭を見て過ごしたのだろう。
「ねぇ、春風。……ずっとここにいてくれる? 」
毎日聞いている質問。春風の顔をじっと見る。彼はそっと頷いた。
永遠なんてない。
ずっとなんてない。
心のどこかで知っていた。
だけど毎日聞けば、春風はずっと側に居てくれると思ってた。
あの頃も、多分、今も。
それから二週間。幸せは突然、崩壊した。