Not melody from you
:Side-heavy-2
「…コーヒー、淹れるよ」
彼女の二本目のピースが灰になったところで、ぼくは言った。
虚ろな目で、彼女は僅かに頷いた。
立ち上がり、台所へ行ってお湯を沸かした。
テレビから聞こえるまるで彼女と反比例するかのような陽気な笑い声に腹がたった。
その怒りをどうにか鎮めている間に、コーヒーが出来上がった。
カップを二つ両手に持って、片方を彼女の前に置いた。
「ありがとう…」
彼女がボソボソと呟くような声で言った。
母親の死んだ後でも、彼女はこういう最低限の礼儀を怠らなかった。
きっと頭の良い彼女は、自らの悲しみを人に押し付けずに、自分だけを上手に堕としていく方法を知っていたのだろう。
ぼくはとても悲しくなった。
同時に、ただ傍にいるだけしかできない自分に怒りを覚えた。
きっと、今の彼女には好意でも愛でも慰めでもなく、ぼくを通り抜け、現実を通り抜け、天国にいる彼女の母親まで通り抜けた、見る事も触る事もできない遠い遠いどこかにある何かが必要なんだろう。
ぼくには縁もゆかりも無い何かが。
もちろんそれを無視して言葉をかけようと思えば、幾らでもできた。
でもどんなに彼女の悲しみや辛さを理解したとしても、言葉に出した途端、全ては虚しく彼女の外側で反響してしまう。
意味が無い、届かない。全てが真実じゃなくなってしまう。
やはりぼくにできるのはただ彼女の傍に居る事だけだった。
あまりにも非力だったのだ、ぼくは。
時計に目を向ける。時刻は午前二時を指していた。
襲ってくる眠気を消す為に、コーヒーを飲む。こんな時でも眠気を覚える自分に吐き気がした。
そんなぼくの気配を察したのか、彼女はまだ半分ほど残っていた三本目のピースをもみ消し「寝よう」、と言って寝室へ向かった。
ぼくが彼女が寝ようとしない限り眠りにつかないのを、彼女は知っている。
気をつかわせてしまった事に若干の罪悪感を感じながら、彼女の後を追うようにぼくも寝室へ向かった。
寝室には数年前に彼女にねだられて買ったダブルベッドが置いてある。
一人で眠るより二人で眠る方がいい、とその時の彼女はそう言っていた。
今の彼女にとってそのダブルベッドは少しでも彼女に安らぎを与えているのか、それとも隣にぼくが眠るスペースがある事を疎ましく思っているのか、ぼくには分からない。
寝室へ着くと彼女はベッドの右側に横になった、その左側にぼくも横になる。
彼女の母親が死ぬ前にはこのベッドの上で一晩中下らない話で夜を明かした事もあるし、もちろん交わった事もある。
しかし彼女の母親が死んでからのこの三カ月間、一度として交わった事はない、唇を重ねる事も、抱き締める事も、全ては彼女が頑なに拒否した。
一つの行為が百の言葉より有用な距離に今の彼女はいない。
ぼくはいつものようにかけ布団の下で彼女の右手を握った。
手を握る事。
それが唯一、彼女がぼくに許した行為だった。
当初はこれを拒んでいた彼女も、振りほどいても振りほどいてもしつこく手を握ろうとするぼくに諦めてくれたのか、今ではその手を受け入れてくれている。
不安だったのだ。
こうでもしないと彼女はぼくが眠っている間に部屋を出て、ぼくの知らない遠い所で独りで自らの命を断ってしまうような気がした、そしてぼくにはそれがたまらなく怖かった。