《glory for the light》-6
僕は時折、コーヒーなんかを運びながら、マスターの傍らで皿洗いを主に仕事に勤めていた。
店内のステレオからは、クラシックが荘厳な調を奏で、殷賑な雰囲気で満たすこともあったが、大抵はアメリカのオールドロックがかかっている。お気に入りの曲がスピーカーから流れる度、マスターは下手くそな口笛混じりでご機嫌だった。
特にマスターが好きな曲は、こんなやつ。
[俺には解らない 何故 人は泣くのか 涙など振り切って 戦おう 新しい秩序を勝ち取るのさ もう一度 世界を一つにするために 教えてくれよ 死ななければならない訳をさ 何故 人は殺し合うんだい 愛し合い 新たな鼓動を刻もう 踊ろう そして恋をしよう]
タイトルは[AREYOUGONNAGOMYWAY]。レニー・クラヴィッツが好きな初老のおじさんは初めてだった。
僕は彼の口笛を聞く度、亡くなった叔父が口笛を吹けなかったことを想い出す。それでも必死でCDの音色に合わせて、吹き抜ける風みたいな音を吐き出す叔父の姿は、無垢な子供のようで微笑ましかった。
ステレオから流れる曲が閑寂としたバラードへと代わった時、残りの客が会計を済ませて出ていった。物憂げな唄声が響く店内に、僕とマスターは取り残された。
「それ終わったら、一息いれろ」
彼は煙草に火を着けた。軽く伸びをしてから、美味そうに紫煙を吐き出す。
僕は皿を洗いながら領ずいた。
都心からは随分と距離の離されたこの店には、住宅街の側という立地のためか、常連客が多かった。毎日昼食を摂りにくるサラリーマンは、飽きもせずにナポリタンばかりを注文した。何故か雨の日ばかりに訪れ、コーヒーをすすりながらひっきりなしに煙草を吹かす老人。夕暮れ時、学校帰りに来る女子高生は、いつも小一時間ほど本を呼んでからサンドイッチを食べて帰る。皆、都会に擦り減らされた心の一部を癒しにこの店に訪れている。そう感じさせるような郷愁がここにはあった。
僕は皿洗いを終えると、マスターから煙草を一本貰ってコンロの火で着火する。
「今日も来るのか?あの子は」
窓辺を見遣る視線の先に煙を投げかけ、マスターが言った。
「多分、来ると思いますよ」
「そうか。だとしたら、そろそろだな。紅茶煎れとくか…」
元々、この店のメニューに紅茶はなかったのだが、彼女が初めて訪れた時、マスターに紅茶はないと言われて残念そうな顔をされた。それを気にかけ、マスターは翌日から紅茶の葉を購入してきた。たった一人の客のために、とびきり上等なやつをだ。
「わざわざメニューに加えなくても良かったのに」
「ニーズに答えるのが売り手の役目。たとえ他にオーダーがなくてもな。むっ…。そう言えばメニュー表に紅茶を書くのを忘れてた。オーダーがなくて当然か…」
彼は自分自身に呆れたように苦笑して、紅茶の葉を取り出す。
「結構な量ですよね。その葉っぱ。高かったでしょう。元を取るには後何回のオーダーが必要なんだろう」
「…なんか、あの子が来るのを拒むような口振りだな。彼女とは友だちなんだろ?友人の希望を叶えたいとか、思わないのか?」
僕は煙草を灰皿に押し付け、残り火を何とはなしに眺める。
「まさか。思いますよ、当然。でもね、彼女は意外と現実主義ですから。自分のために利益を無視して用意してくれた物を、素直に喜べない子なんです。人に迷惑をかけてまで自分の望みを叶えたくないというか…変なところが不器用で、優しいんですよね」
なるほど…。と呟いて彼は領いた。
「良く分かってるんだな。彼女のこと」
思わせ振りに口許を笑みに歪め、彼はお約束の推測を露わにする。
(好きなんだろ)
その視線が語っていた。僕はやれやれと溜め息をつき、どうしたものかと眉を奇せる。人の色恋沙汰を詮索する前に、早く奥さんでも探して下さい。そう言いたいのをこらえ、僕は自分だけのためにコーヒーを煎れた。
「俺の分も頼む」
「その下卑た笑いを消してくれたら考えておきます」
マスターが僕の頭をはたいた。
僕がコーヒーカップに褐色の液体を注ぎ終えた時、扉のベルが音を鳴らした。
「いらっしゃい」
と僕。
「噂をすればなんとやらだな」
とマスター。
「なに?私の話?」
大人びた顔立ちを子供のように輝かせ、彼女は言った。明るい笑顔の下の、幼い好奇心が不釣り合いで微笑ましい。人を引き寄せることに秀でた雰囲気。今では同じ大学の同級生だ。