《glory for the light》-24
(…けどね、行こうと思って、夜行バスの切符も買って、昨日の夜に家を出て、バスステーションまで行こうとしたら、なんだか怖くなっちゃった)
苦々しく笑う百合。
(…怖くなった?)
僕は訊いた。
(…うん。自分と逢うのが怖くなった…)
今まで毅然としていた表情が、少しだけ崩れた気がした。
(自分と逢うのが、怖い?)
僕はまた尋ねた。百合は重々しく領ずく。
(過去の二人が、余りにも幸せだったから、楽しかったから、想い出すのが、あの街に帰るのが怖くなった。今の私は、あの時の私とは違う。幸せだった頃を想い出しても、今の私に泣きたくなるだけだから…)
僕は壁際のリトグラフを眺めながら、彼女にかけるべき言葉を探していた。見付かる言葉は全て、実体のない空虚なものばかりだった。
(…それで、帰郷する気もなくなって、アパートに帰って、ベッドにもぐり込んだの。全部忘れて、眠ってしまおうってね。だけど、忘れようって思うことはつまり、それをまた思うことじゃない?栓を開いたみたいに昔を想い出して、また悲しくなって…)
百合は、冷えるがままにしていたコーヒーカップを口許に運んだが、何を思ったのだろう。また飲まずにトレイの上に置いた。
(朝になっても、ずっとその気持ちを引きずってた。大学に行く気にもなれなくて、ベッドの上で天井を見てたらね、ふと君が言ってた喫茶店を想い出したの)
百合は僕の顔に瞳を向けると、照れたように笑ってみせた。
(こんな時間だから、君がいるとは思ってなかったけど、ホントは逢えることを期待してたかも。私にとって、今、目の前にいる君は過去じゃなくて、現在の人でしょ。私が失われた過去に消えてしまうのを止めてくれる、最後の楔みたいに思えたの…)
僕が、百合を現在に繋ぎ止める、最後の楔。それが本当なら、どれだけ嬉しいことだろう。でも、それは真実ではないような気がした。僕を見つめる彼女の瞳が、僕という存在を通り越して、僕の知らない誰かへと向けられていることに、僕は気付いていたからだ。百合は僕の中に他の面影を求めているのであり、僕自身を求めているのではない。死者の影を生者に見い出そうとしている。だから、街へ帰ることを諦めた百合は、それが偽りの影と知りながら、僕の中に誰かを求めた。偽りの幻想であれば、傷付けられることもないから…。僕がアカネと初めて出逢った日、アカネに百合を重ねてしまったように、百合は僕とかつての恋人を重ね合わせているのでは…。
(そう思ってくれてるのなら、僕としては嬉しいけど…)
僕は胸の奥から絞り出すように声を出した。
できるだけ、内心の葛藤を避けられまいとするのに必死だった。
(…うん。そう、思ってるよ)
本当に?疑問が喉元を駆け上がり、口腔で霧散する。言葉にならないわだかまりが、胸の中に渦巻いていた。
…ボクハダレカノカワリジャナイ…
消えない想い出は眩し過ぎる光を放ち、彼女という闇を照らしている。僕もまた闇なのだろう。僕の闇の中に刺す、一筋の光に照らされようと、彼女はもがいている。
百合に伝えたい。その光は幻だと。僕の本当の光は他にある。過去に捕らわれ、盲目になって見失ってしまっただけなんだ。目を凝らせば、きっと見付かるはずなのに…。
(僕は…)
想いの残滓を一欠片、言葉に代えて吐き出そうとする。
(うん?)
百合がいつものように、小首を傾けて僕を見つめる。春の湖面のように澄んだ瞳。本当に僕を見つめているのだろうか…。
(いや、なんでもないよ)
本当の言葉を失い、口を出た言葉は、傷付けないためだけの偽りの言葉。
僕は作り笑いを浮かべ、首を振った。
店内をひっそりと覆う調は、寂寞としたピアノのメロディに代わっていた。いつの間に降っていたのだろう。窓を叩く雨音に溶け込み、その妙なる調は静かに鼓膜を震わせていた。
(…雨、降ってきたね。強くなりそう)
うん。僕は領ずき、耳に残る哀しげなメロディを追い払おうとする。
(傘、持ってきてないよな?)
百合は領ずくと、温くなったコーヒーを飲んだ。
(それなら送ってくよ。今日は客足も少ないし、マスターもいないしね。早めに切り上げてさ。バイクで送るよ。ここから駅まで歩く時間を考えれば、その方が早いと思う)
僕がそう言ったのは、少しでも長く百合と一緒にいることで、僕自身を彼女に認めて欲しかったのかもしれない。