嵐が来る前に-3
弟の優は僕の体が変わっても、一年前と変わらず『お兄ちゃん』と呼んでくる。
「優の学校ねぇ、今日からプールが始まるんだよ?」
ぷ、ぷぅる………っ!
そう言えば来月から水泳の授業に変わることを忘れていた。
僕と同じ事を考えてたのか、母さんは洗っていた食器を滑らせ、耳障りな音を盛大に撒き散らす。
『あの様子じゃ、少なくとも二枚は割ったな』
「そぉかぁ。きょおからぷぅるかぁ。
でもきょおはあめがふってるから、おにぃちゃんぷぅるはなしだとおもぅよぉ」
『いかん!思いっきり棒読みになってる…』
僕は笑顔を引きつらせながら、優に答えてやった。
「お、お兄ちゃん、顔が怖いよ……」
優はじりじりと後ずさる。
「ごめんな、優……」
弟の脅えた態度に僕は「はっ」として、努めて優しい口調で謝った。
「ちょっと、考え事してたから……」
「プールが始まるから困ってるの?」
我が弟ながら的確すぎる発言に、再び優の頭を撫でてやる。
「はっはっはっ。
我が弟よ、スルドい状況判断が出来ることはいい事だけど、世の中には思ってても言ったらダメな時があるんだよぉ」
「わ、分かったから、お兄ちゃん止めて?
……痛いよぉ」
首をぐきぐき鳴らしながら、優は泣いて謝った。
朝食を取り終わった僕は自分の部屋に戻り、学校へ行く準備を始める。
パジャマの上下を脱いで、それをベッドの上へ無造作に放り投げた。
下着だけの姿になった自分自身の身体を、僕は見直す。
身に付けてる下着は女の子の穿く白いショーツ。
布地面積が小さくて不安だけど、フリフリが付いてる様なのよりはマシである。
そんな代物を使おうモンなら、血液がいくらあっても足りるもんじゃない。
そこは少し盛り上がってはいる物の、それだけで膨らみと呼べるモノは存在しない。
その中身を興味本意で弄った事は、実はまだない。
怖かったのだ。正直言って。
その思いに捕われて以来、それまであった性に対する欲求が無くなった。
こんな感覚は多分、僕みたいな人以外には分からないと思う。
それから少しだけくびれたお腹に視線を移し、そのまま胸元を見つめる。
膨らんだ胸を、痛くならない程度に、両方の掌でキュッと包む。
『酷い擽ったさと、少しのウズキ』そんな感覚が走る。
両手から伝わる感触は、『ぬるま湯を入れたビニール袋を触ったような』温もりと柔らかさ。
僕の人より小さな手でもスッポリと収まる大きさの胸……。
だからゆったりした造りのカッターシャツを着てしまうと、すぐに紛れて分からなくなる。
春先にショーツに合わせたブラを買って貰ったけど、身に付けた事はないし、身に付けようとも思わない。
それを身に付けてしまうと、どうしてもブラの分だけ盛り上がってしまうのと、透けて見えてすぐにそれと分かってしまうから。
結局ブラはタンスの奥に、そのまま突っ込んでる。
僕は両手を胸から離し、昨日のうちに壁際に吊していた、カッターシャツに袖を通す。
そして真っ黒なスラックスを穿き終える頃には、可愛らしい男子中学生に代わっていた。
「おっ早ぉ〜、鳴海ぃ。今日もい〜天気だねぇ」
『お前の頭の中身がな…』
後ろから小走りで駆けてくる漆原に、取りあえず突っ込んでみる。
「どこをどう見たら、この鬱陶しいどしゃ降りがいい天気になんの?」
それにしても、朝っぱらからハイテンションなヤツである。
漆原俊(うるしばらしゅん)。
小学生のときからの知り合いで、よく暗くなるまで遊んだ仲だ。 コイツとはクラスは違うが、よく僕のクラスに遊びに来る。
不良と言うわけでもないけど、納得のいかない校則なんかを無視するから、一部の教師に目をつけられてる。
そのせいでとばっちりを恐れて、あまり人が寄り付かない。
コイツと話す人間は僕と片野さん。
それと小学校から付き合いのあった、数人の親友ぐらいか。
悪い奴じゃないんだけど、とにかく何にでも首を突っ込みたがるし……。
だから別の意味で漆原には信用がおけない。
いわゆる悪友と言うやつだろう。
その漆原が鼻を伸ばしてのたまう。
「来月から水泳だよ、水泳!」
ピクリっ
「だから、何……?」
俺は冷たく言い放つ。
はっきり言って、これ程間の悪い話もない。
しかし漆原は僕の気も知らず、嬉しそうに続ける。
「水泳と言えば水着っ!
来月から女の子の水着姿が見られるとあっては、例え雨だろうと雪だろうと、はたまたボディビルダーが降って来ようと、俺の心の快晴を曇らせることは出来ないんだっ!!」
「あっそっ、僕の半径一〇m以内に入ってさえ来なきゃ好きにやってて良いよ!」
拳を振り上げて力説する漆原を無視して、一人歩き始めた。