《Loose》-1
余りにも大き過ぎた、空の色。それを映す君の瞳は、誰の目にも留まることなく、色褪せていくのだろうか。枯らす涙も街の影に沈み、やがて群衆の中に飲み込まれていく。僕等は堤防を越え、河を一面に見渡せる場所に座っていた。
「ねぇ、神崎。こんな話しを知ってる?」
流れるような黒髪を、指先で器用に弄びながら、早紀は秋風に声を乗せた。
「レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた『モナリザ』はね、微笑んでるんじゃなくて、我が子を失った哀しみに耐える顔だって一説があるのよ」
厭世的な眼差しは、青空に吸い込まれるかのように、深く澄んでいた。それは何処か矛盾した瞳の色だった。早紀は知っているだろうか。僕がその瞳を覗く度、この胸を撫でる哀しみの手を。
「私はね、その説を信じてるの」
「それは何故?」
「教訓のある話しだからよ。目に見えるものだけが真実とは限らない。そう教えてくれた気がするわ」
口調とは裏腹に、その瞳の宿す色は、ある種の諦めにも似ていた。
「女性の内容する秘密の情緒は、天才すら欺くことが可能。つまりはそう言うことかな」
僕は達観するように言った。
すると早紀は何故か、悪事を咎められた子供のように、少しだけ、何かを恐れるような顔をした。僕は見て見ぬ振りをした。その顔の意図するものを忘れたかった。早紀はそれを払拭するように、明るく笑った。その切り替えの良さは子供のそれではなかった。酸いを知悉した大人みたいで、彼女を一段と美しく、そして何処か、哀しげに見せた。
「神崎のそう言う考え方、好きよ」
雑然とした笑みを破り、早紀は言った。それは嘘ではないが、それが全てではない。何故だか僕はそう感じて、複雑な心境だった。やがて僕等は立ち上がった。昼間だというのに、秋の風は肌を刺すように冷たい。寒がりな彼女は、肩をすくめて煙草に火を灯した。苦い香りの、セヴンスターだ。僕がまだ煙草を吸い始めたばかりの頃、彼女に宛てた言葉を思い出す。
(こうやって、毒を吸うことの意味は?)
すると早紀はこう言った。
(贖罪、かもね。つまりは短縮のためよ。死へのモラトリアムを縮めるためね。分かる必要はないわ)
何となくだが、僕はその意味が分かりかけて居た。それは皮肉にも、僕の望む答えではない。そんな気さえする。
二人は、嫋々とそよぐ木枯らしに吹かれながら、肩を寄せ合い、ゆっくりと歩いた。背の高い早紀は、僕と比較しても大差はない。平行に並んだ唇から、早紀の口笛が聞こえた。下手くそだけど、それを嘲笑う者は、此処には居ない。口笛を休めると、煙草を吸い、また口笛を吹いた。滑稽な仕種だが、僕はそれを愛しく感じた。感じるだけなら罪はない。それを伝えることなど、あってはならないのだから。
僕がキャスターマイルドを一本取り出すと、早紀が銀色のジッポライターで火を付けてくれる。十字架が刻まれていた。元からのデザインではない。早紀が自ら彫ったものだ。十字架はライターだけでなく、彼女の耳元で揺れるピアスも、やはり十字架だ。
(十字架はね、私のお守りなのよ)
いつのことだったか、彼女は僕にそう教えてくれた。敬虔で盲目的なクリスチャンよりも、その言葉は真摯に感じられた。
『今』において、彼女と二人で歩いていても、胸によぎるのは『過去』ばかり。なんて滑稽だろう。そしてなんて、利口だったのだろう。
僕は忘れようとしていたのだ。その時、彼女が秘めていた何かを。その時、僕が抱いていた何かを。
「これから何処へ行こうか?」
煙草を口の端にくわえ、早紀は言った。
「僕は何処でも良いさ」
君と一緒ならね。その言葉は、胸の奥底にしまい込んだ。いつものように、二度と溢れ出さないよう、鍵を掛けようとした。そしていつものように、巧くいかなかった。何もかもが、巧くはいかない。それでも、この瞬間を生きることに懸命だった。幼いながらも、全力だった。煙草を揉み消し続けた靴裏で、踏み出す大地は寂れた幻影。永遠に続くようでもあり、泡沫の夢のようでもある。誰もが抱くことなのか。それでも、歩く事を止めようとしない君と僕は、哀れな子羊なのだろう。誰も救えはしないさ。僕は煙草の火を靴裏で揉み消した。
「あんたのウチに行ってみたい」
早紀が言った。好奇心よりも、他の何かで、彼女の瞳は潤んでいた。その正体が気になったが、知ってはいけないような気もした。
二人で僕の家に行った。話題はロックバンドと最新映画。それだけで全てが満ち足りる程、僕等は子供じゃなかった。早紀は帰る時、ライターを忘れていった。あるいは、置いていったのかもしれない。