《Loose》-3
僕は早紀のコネで、その楽器屋のバイトに一枚噛ませて貰うようになった。学校が終わると店へと直行し、二時間ほど早紀と一緒にレジを勤める(早紀は三ヶ月ほど前に高校を辞めたらしい)。その後は軽く店内を清掃するだけの仕事内容だ。給料は労働基準法を侵すほどの低賃金だが、彼女と同じ時を過ごせることが、何よりの報酬であり、滋養でもあった。二人の仲がそれなりに親密になると(もっとも、何を基準に親密と定義するのかは人それぞれだ)、僕たちは休日でも、その楽器屋で顔を合わせるようになる。デートと呼べるほど洒落たものではない。其所で待ち合わせをして、近くの喫茶店で他愛のない話しをしながら閑暇な時を送るだけだった。要するに、二人とも暇だったのだ。それでも僕等は互いに、この泥水に浸るような怠惰な時を埋める相手は、自分たち二人だけだった。互いが目に見えない何かに惹かれていたのだと思う。雑然とした、あてどない日常を静観できるのは、周りを見渡しても僕と早紀しか居なかった。それはきっと、とても特別な意味を持っていたのだと思う。
互いの傷を舐め合うような関係なら、いつかは忘れてしまうのかもしれない。それでも、僕は早紀の中でしか見えないものを見つめていたし、いつだって真剣だったと思う。少なくとも、上面だけを取り繕うような関係ではなかったし、僕はそれを誇りに思っていた。二人が出会ってから数週間が経ち、僕は早紀の影響の元、ギターを始めた。それは彼女からの贈り物で、年季の入った漆黒のレスポール・カスタムだった。メーカーを見ると、驚くことにギブソンだ。「ギブソン?こんな高価な物は貰えない」
「いいのよ。パートナーが安物じゃ、格好つかないでしょ。それにね、アンタだったら、きっと誰よりも巧くなれる。他の馬鹿とじゃインスピレーションが違うもの。ひねくれ者っていうのかな。凡庸な見解の奴は上には行けないけど、神崎は違うわ」
早紀の言葉に、僕は素直に喜びを覚えた。期待を重荷に感じなかったのは、彼女自身の言葉だからこそだったのだろう。何より、僕のことをパートナーと言ってくれたことが嬉しかった。
その想いに答えるように、僕は憑かれたようにギターを練習した。淡い夢の中でステージに立つ相手は、ジミ・ヘンドリックスでもジミー・ペイジでもザック・ワイルドでもない。僕に取って、不朽のギターヒーローとは早紀その人だった。大人引いていて、でも社会に対する反骨精神を持ち、他の女子とは違い、確固たる自己を確率した少女。群れることを好まず、大衆を冷めた目で睥倪する少女。煙草が似合う少女。そして、シナジーのように、女であることに媚びないロックスタイルを包容した少女。それが当時、僕の知り得る限りの彼女だった。けれど、僕は次第に早紀が宿す哀しみに気付いてしまった。二人でお茶をしていても、時折見せる遠い視線に、悩ましげな眼差しに、僕は気付かざるを得なかった。それは届かない夢に手を伸ばすような、痛々しい表情でもあり、掴んだ幸せが、その手から離れることを恐れるような顔でもあった。それは産まれて初めて見る種類の表情であり、僕は少し、困惑と共に不思議な胸の高鳴りを覚える。
「どうした?冴えない顔して」
ある日、僕はいつもの喫茶店で訪ねる。
「やっと訊いてくれたわね。ちょっとね、彼氏といざこざがあってさ…」
早紀に彼氏が居たという事実。別に驚きはしなかった。薄々は感付いていたのかもしれない。不思議なほどに、僕は冷静だった。
「成程。不躾だけど、そのいざこざの正体を訊いても良いかな?」
早紀はセヴンスターに火を付けた後、ライターの十字架を見つめた。其所にどんな想いがあるのか。僕は訊くことを躊躇った。
「…自分で考えな」
何処か茫洋として、早紀は言った。
「ゴメンね。別にアンタには関係ないとか、言うつもりはないけどさ。アンタだからこそ、言いたくないのよ。恋人じゃないにしても、神崎が特別だからよ。それだけは、分かって欲しい…」
その視線は、僕ではなく、十字架に向けられている。早紀と瞳を合わせたかったが、彼女がそれを望んでいなかった。どうしようもないのだろうか。答えを何処で探せば良いのかさえ、僕には分からない。
それでも僕は言った。僕が本当に早紀にとって特別なら、それは必要なことだった。