和州記 -或ル夏ノ騒動--3
「どないしたん?」
微かに息を切らせて問う彼に、首を横に振って竜胆は答える。
「何でもない」
「何でもないのに、溜息つくかい」
言って、頭に巻いた手拭を外し、蒸れた髪を掻き上げる。
それが男ながらに妙な色気を感じてしまい、竜胆は微かに頬を赤らめて視線を逸らした。
「何でも、ない」
「熱でもあるんか?」
その赤らんだ頬を見て、一紺はまた風邪か?と思い、彼女の額に手を当てた。
一紺の汗ばんだ手が額に張り付く。
かっと更に自分の顔が赤くなるのを、竜胆は感じた。
「少し、熱いかな」
額に手を当てたまま、一紺は竜胆の顔を覗き込んで言った。
そこで、二人ははっとする。
――近い。
口付けの寸前程に近づいた、二人の顔。
あ、と竜胆が声を上げそうになった、その瞬間。
「ん…」
額から一紺は手を外し、その手で竜胆の結い上げた髪を掻き上げる。
崩れた髪の毛など気にはしない。
一紺は唇を優しく竜胆のそれと触れさせる。何度も、何度も。
「駄目だ、一紺…」
「竜胆…」
彼が竜胆の名を呼ぶ。低く甘い声。
吐息を漏らしつつ柔らかな唇を食み、一紺は竜胆の腰を抱いた。
そしてその腰に回した手が、そろそろと背を撫ぜる。
竜胆は身を捩った。
このどうしようもなく甘い口付けの嵐から逃れなければ。
いつもの通りの展開だと、この口付けの後絶対に身体を重ねてしまう。
(それだけは、避けないと…ッ)
「一紺、一紺!」
ぐい、と竜胆が無理やりに一紺の身体を引き剥がした。
唐突に押し退けられたことで一紺は面食らったような表情をするが、途端名残惜しそうに眉を八の字にさせる。
「そんなに汗臭いんは嫌か…」
「そうは言ってない」
言って竜胆は大きく息をついた。
彼女は襟元と裾を正し、正座すると一紺にもそこに直るように言う。
首を捻りつつも一紺は彼女に従って相向かいに正座した。
妙に改まった彼女の様子を訝しく思いながら、一紺は竜胆に訊ねる。
「急に改まって、何」
「…もしものことだけど」
竜胆は、躊躇いがちにそれだけ言った。
もしものことだけど?と一紺は聞き返す。
けれども、竜胆は何故かその先を言えない様子で口を噤んでしまった。
一紺は痺れを切らして、話を促す。
「何や何や、早う言いや」
その切羽詰った言い方から、普段正座などしない彼の足にかなり痺れがきている様子が窺えた。
竜胆は俯いて、こくりと頷く。
そして、呟くように小さく言った。
「もし…もし子どもが出来たとしたら、お前、どうする?」
…………………………沈黙。
重い沈黙。
一紺は、未だ嘗てこんなにも重い空気を、感じたことはなかった。
冷汗が身体中を流れるようだった。
「お…俺」
その沈黙を、一紺が破る。
「俺にもガキが孕めるんかッ!?」
「だああッ、そうじゃなくて!」
竜胆が、一紺の言葉に脱力した。
彼女は頭を小さく振り溜息ひとつ。そして彼の目を真っ直ぐに見つめる。
「もしかしたら、だ。まだ決まったわけじゃない」
そして至極真剣な表情になった竜胆は言う。
「もし私に子どもが出来たとしたら、どうするって訊いたんだ」
「……お、お前が……?」
暫しの沈黙を置いて、竜胆がこくりと頷いた。