飃の啼く…第22章-11
「そのために、命を懸けても良いのか!」
私の襟をつかんで、ぐいと引っ張られる。血だらけの顔面を突き合わせて、私たちはにらみ合った。私の脳裏に浮かんだものは…一滴の波紋。いつだって私の心を乱す、静かな雫。
「…良い!」
それを受け止めること、それを拭ってやること。それを笑顔に変えること。
私の、一番初めの決意。
私の。八条さくらの。
そのまましばらくにらみ合った後、慶介の手が私の道着を離した。私の顔を見たまま彼は立ち上がり、私に背を向けるとようやく言った。
「なら、好きにしろよ…馬鹿女。」
「好きにするわよ…阿呆男。」
慶介は、着替えの入った袋を肩に担いで、振り向かずに部屋から出て行こうとした。
「待ってなさいよ。必ず決着付けに、帰ってきてやるんだから。」
慶介は、2年前から履き替えてないボロボロのスニーカーに足を突っ込みながら、まだ振り向かずに言った。
「…ちッ…フラグ立ててんじゃねーよ…」
立ち上がって、群青に暮れた空の下を歩き出した。
「今度“も”俺が勝ってやるっての。」
そして、上気した肌を洗うような夜気が、開いた窓から忍び寄ってきた。
「ひたたた…。」
「馬鹿もんが!」
ひりひりとした痛みに顔をしかめていた私は、頭のてっぺんに落ちてきたおじいちゃんの拳骨にまたしても顔をゆがめた。
「道場は殴りあう場所じゃないと何度いってもわからん奴らだ!」
家の中に居る時は機嫌の良い猫みたいに優しいおじいちゃんも、道場の中に居る時には紛れもない雷爺だ。
「すいませーん…。」
でも、孫娘の粗暴な振る舞いに、口角をぐっと下げるおじいちゃんの、瞳だけは優しかった。
「さぁ、飯にしよう。“男同士”戦った後にはいつも腹が減るもんじゃ、なァ?」
「男同士って…なによぉ。」
不満げに鼻を鳴らす私を無視して、おじいちゃんは飃に向き直った。
「婿殿は酒が好きかね?」
目蓋が腫れているせいで、遠くに座る飃の表情は見えなかった。でも、うなずいたのは見えた。