多分、救いのない話。-5--9
「何でもいいんか?」
「ええ。私に出来ることなら」
「……だったら…」
意味のないことかもしれないが、それでも火口は口にしてみた。
「この先公に何もせんといたってくれへんか?」
「…………」
身体を離し、また正面から顔を覗き込まれる。いつもの微笑に、僅かな困惑が見えた。……ように思えるが、自信はない。
「どうして?」
「そりゃ、多少はショッキングな事件やけど。昔の話やろ? 今何かしたわけではあらへんのやし、……悪い先生やないみたいやし。メグちゃんに何かするって決まったわけじゃ」
「“何か”あってからじゃ遅いのよ?」
「……じゃあ聞くわ。社長は“何が”あると思うん? いい先生らしいやんか」
「…………」
「昔、一人おったな」
何年前になるだろうか、慈愛を泣かせたクラスメイトがいた。彼女はその父親の会社をあらゆる方面から影で圧力をかけ、倒産寸前まで追い込んだ。一時期は一家心中寸前まで追い込んだらしいが、彼女はその会社が開発した特許を買い上げ、自らの会社の傘下に置いた。会社の技術もノウハウも全てを奪っておきながら、あえて救った。結果としてその一家は今でも彼女の言葉に従わざるを得なくなっている。追い込んだのが彼女なのだと一家は分かっていないのが、更に救いがない。
「俺はあんま、そういうの好かん。出来れば止めて欲しいねん」
女は僅かに小首を傾げ、考え込んだ。そういったことで他人の人生を左右するのは間違ってると思うし、それ以上に単なる勘や不安で他人の人生を捻じ曲げる彼女の姿を見たくない。
だが。彼女の中には単なる勘や不安でない、もっと確固とした確信があるようだった。「ふふっ」と可笑しそうに笑い、
「……この報告書、本当なのかしらね?」
――まるで意味不明なことを、言った。
「……俺が嘘吐いたって、そう疑ってるんか?」
「まさか。事実はきっとこの通りなんでしょう。でもそれは本当かなってことなの」
「……すまん。俺アホやから。もう少し分かりやすく」
「まあいいわ」
唐突に、彼女が折れた。やはりさっぱり、彼女のペースは分からない。
「貴方の言うことを聞くって確かに言ったんだし。今は何もしない。けど、慈愛に“何か”あったら」
「っ…!」
痛みが走る。背中に回された手が、指がシャツを通して肉に食い込んだ。
だけど、相変わらず、彼女は言動から乖離した微笑を浮かべていて――
「その時は、ね。この約束も反故にするけれど。場合によっては、貴方も許せないかもしれない。それでもいい?」
「いい、というか」
むしろ彼女が折れたことの方にビックリしていた。正直慈愛のため、そんなこと出来るはずないと突っぱねられるに決まってると思い込んでいた。
「……それでいいのかしら? いいならもう、この話は終わり」
言葉を返せない。いつもどおりのような、いつもとは全く異なるような、彼女の言動が気になって仕方がなかった。
だけどそんな火口の感情は、彼女は関係ないと言わんばかりに。火口の背中に回された腕が力を込められ、彼女を押し倒す形で火口は身体を倒される。
「……あ」
「どうした?」
「シャワー、浴びてきた方がいい?」
はは、と火口は笑って見せた。先程のことを皮肉っているのだ。
「社長がそうしたいなら」
「じゃあそうしない。――今すぐ欲しいから」
それ以上、お互い言葉は望まず。
しかし想いは向かい合えずに、擦れ違いを孕んだ矛盾はいつか崩壊をもたらす事を何処かで理解していながら、それでも男は女を求めていく。
女が男を愛する可能性など、億に一つもないのに。