Mermaid 〜天駆ける馬〜-3
「・・・・っただいま!」
手の中でもつれる鍵をやっとの思いで開けると、リビングに向かって叫んだ。
「・・・・ドル、チェ?」
返事は、ない。
疲れとは違うものが、彼の鼓動を再び速くする。
静まり返った室内。明かりがついていないリビング。
慣れきった場所なのに自分の足音がやけによそよそしい。
テーブルの上には、散乱したメモ用紙。そして、ソファーの上には、
すやすやと寝息をたてる彼女の姿。
「・・・はぁ・・・全く・・・」
彼は苦笑して、鞄と上着を放り出すと、ソファーの横に腰を下ろした。
あなたはお気楽なものですね、と指の先で彼女の頬をつつこうとして、結局そのやわらかな感触は彼の指には触れなかった。あまりにも白く、なめらかなそれは、この真面目な青年にとってはいかにも女性のものという印象を与えたのだ。
「まるで・・・。」
長い睫毛。少し開かれた、さくら色のくちびる。白い肌に無造作に影を投げかける、艶やかな黒髪。
窓から差し込む藍色の光に染められた部屋の中で、天馬は改めてドルチェを見つめた。
「・・・まるで、どこかの国のお姫様みたいですね・・・。」
ずっと、思っていたことだった。別に妄想癖があるわけではないが、あの日、海辺に佇むドルチェを見た瞬間に、彼女の後ろには何か壮大なストーリーがあるような気がしてならなかったのだ。だからこそ、彼も自分のことを語ろうとはしなかった。物語の表紙を開いてしまったら、読者は必ず結末を迎え入れなければならない。彼はその結末を知るのが怖かった。例えばその主人公が、自分は足元にも及ばないお姫様だとして、何の不思議があろうか。
「・・・ま、実際はそんなわけないですけどね・・・。」
こんな勝気で気丈なお姫様、だなんて。
彼はそう独りごちたが、しかし真摯な光を湛えた双眸は、今は長い睫毛にふちどられていて。いつも強い意志によって結ばれた唇は、今は、何かを、求めるように・・・
「・・・ったく、そういうことしてると・・・」
天馬はソファーの上に身を乗り出すと、どこか切なげに眉をひそめた。
彼の色素の薄い髪の毛が、彼女の青白い額にかかる。
室内の藍色は更に深みを増し、まだほのかに白い月がカーテンの陰から覗き、そして、
「・・・なにをしているんだ?」
「うわっ!」
思わず床に手をつき後退りする天馬。彼の右手に握られているものを見て、ドルチェは怪訝そうに顔を顰め、ため息をついた。
「・・・顔に落書きだなんて、お前はしっかりしているようで実は幼稚なんだな。」
「あはは、ドルチェこそ変なところで勘が鋭いんですからー。なんであのタイミングで起きちゃうかなー?」
持っていたサインペンをサイドテーブルの上に戻し、そのへらへらとした表情とは裏腹に、彼女まで聞こえてしまいそうな鼓動を隠すため、うつむいて床に散乱しているメモ用紙をかき集める。
「・・・あ、そうそう!け、結局、カレーは上手く出来ましたか?」
「ん?まあ、な。お前ほどにはいかないが。」
「そ、そうですか?」
ふと手元に視線を落とすと、そのメモは、ドルチェが引いた傍線やら波線やらでサインペンの跡だらけになっていて。
――こんなにめちゃくちゃに書いたら元の字が見えないじゃないですか。
そう苦笑しつつも、天馬は心の中で感謝した。自分の見えないところで必死になってくれたのであろう彼女と、それから、実に都合の良い場所に置かれていたサインペンに。