『彼方から……』-12
克樹は知らないだろうけど、あたし自分の名前が嫌いだったの。だけど、あなたに呼ばれる様になって自分の名前が大好きになったんだよ?
美宇……
美宇サン?
美〜宇♪
なぁ、美宇……
『美宇っっー!!』
今でも耳に残る、克樹の最期の言葉にあたしは耳を塞ぐ。
あの時あなたに突き飛ばされて、あたしは地面に倒れた。
何すんのよ!克樹!
そう言おうとして振り返ったあたしが見たのは……
すべてがスローモーションだった。
トラックに跳ねられて、克樹の身体は宙に浮いていた。糸が切れた操り人形みたいに不自然に曲がる手足。地面を何度も転がって、あなたの動きは止まった。
雲一つ無い天気なのに、あなたの周りには水溜まりが出来ていく……
朱い朱い、水溜まりが……
夢なら醒めてと何度も祈った。だけど、車の中であなたの手は冷たくなっていく……
あたしを驚かそうとしてるんでしょ?
いつもみたいに起きてよ。
いつもみたいに笑ってよ。
だけど…………
窓の外の景色が滲んでよく見えない。あたしは慌てて涙を拭った。
泣かないって決めたんだ。笑顔で克樹に逢うって決めたんだから……
だけど……
一人じゃ淋しいよ……
早く克樹に逢いたいよ……
自分で自分を抱き締める指先に知らず知らずに力がこもっていた。
電車を降りたあたしはタクシーを乗り継ぎ、ここまで来た。
湖畔が一望出来るロケーションが人気のキャンプ場は、前もって予約を入れておかないとシーズン中は場所が取れない程だ。だけどシーズン中は賑わうここも、今はひっそりとしている。
砂利を踏み締めながら、あたしは想い出を辿る様に散策してみる。
石が積まれた簡単な釜戸。あたしと克樹が初めて出会った場所……
『馬鹿!美宇、触っちゃダメだ!』
『どうして?火はもう消えてるよ?』
『石はな、すぐには冷めないんだ。火傷しちまうぞ?』
『ふーん、そうなんだ。』
釜戸にそっと触れてみても指先に伝わるのは冷え切った感触だけ……
キャンプ場を離れて、あたしは湖畔のすぐ側のベンチに座った。二年目のキャンプの時に克樹と並んで座ったベンチ……
『克樹、目をつぶって……』
『なんでだ?』
『いいから早く。』
目を閉じた克樹にあたしはそっと唇を重ねた。
『み、美宇……』
『えへへ、知り合ってちょうど一年のお祝いだよ?』
『バカ……いきなりなんてズルいぞ。』
『だって、克樹がしてくれるの待ってたら、キャンプが終わっちゃうもん。』
『うっ……そりゃそうかもしれないけど……』
二人で並んで夕日が沈むのを言葉を交わすコトなく、ぼんやりと見つめていたよね……
『なぁ、美宇。』
『ん?何?』
『ずっと一緒にいような。これからも……』
『うん……』
克樹の嘘つき……
ずっと一緒にいようって言ったじゃない。
身体も心も寒いよ……
あなたがいないと凍えそうだよ……
湖畔を渡る風があたしの髪を掻き乱していく。
「克樹…、今行くからね。そしたらまた、あたしを抱き締めてね……」
あたしは立ち上がり、ゆっくり湖畔へと歩いてゆく。足先に伝わる水は身を切る程に冷たい。だけど克樹がきっと暖めてくれるわ。
くるぶしを越えた水面は腰の辺りまで上がって来る。
もうすぐあなたに逢えるんだよね……
水の抵抗が歩みを妨げる。まるで生命が死を拒むみたいに……
胸元を越えて水面は肩口まで上がっていく。だけど、息が続く限り前に進もう。そこですべてを手放せば
あなたに……
逢えるから……
あたしの身体は水底に沈み、そこで意識は途切れた。