飃の啼く…第17章-11
「いや…そうじゃない。“彼”の事だ。」
天井に着くかつかないかのところで規則的に揺れる角。呼吸が深いところを見れば、おそらく眠っているのだろう。眠りの中ですら、彼の魂が休まることは無いのだろうが。
人間が、別の人間を憎んで、憎んで憎んで、死んだ後も憎み続けた時…安らかなる死を拒絶してまで、その人間の死を願った時、人はどうなるか…
カジマヤは、目の前の赤い巨人に目を向けて言った。
「ああ…あいつのことか・・・何も言わないよ。いつものやつ以外は。」
その時、異形の、恐ろしく隆起した眉間がぴくぴくと痙攣し始めた。
「ぉ…おぉおおぉ…カエセ…カエセぇ…」
ね?と、カジマヤが視線を送ってよこす。
「返せ」
数年前、ある男が死んだ。
犯人は灰色のセダンに乗った二人組み。C-10型のスカイラインを自宅付近の歩道を歩く姉妹の横につけ、妹の手をつかんで車の中に引き込んだ。妹を必死に助けようとする姉は、車の中から放たれた銃弾によって即死。犯人の顔は見ていない。
そして妹の行方もまだ判っていない。
彼はその双子の父であり、警官だった。
彼は46歳で亡くなった。事件後すぐに警官としての職を辞して、自ら犯人を捜し、徒労に終わり…その心労は体を徹底的に蝕んでいた。
その葬式の後…火葬場の火葬装置の重く頑丈な扉をぶち破って現れたのは…
同僚や親族が見知ったかつての彼ではなかった。
彼は、人間の身体を灰も残さず焼き尽くす豪火に焼かれながら、傷一つ無い体で現れた。『返せ、返せ』と、大声で叫びながら。
会場はまさに地獄絵図と化した。その化け物は会場の壁を壊し、柱を揺らし、天井を突き破って暴れた。彼を止められるものは、同じ世界の住人…つまり、人間ではないものたちだけだ。
そこで手を貸したのが、『青嵐(せいらん)会』という狗族からなる組織だった。青嵐は、人間と妖怪、神族との世界の境界線を警備する組織といっても良いだろう。颪もそれに所属している。飃は厳密には青嵐のメンバーではないが、彼には他の狗族よりも強力な破魔の心得があったので呼ばれることになった。彼が到着したころには、近代建築の技術を以て築かれた重厚な建物は、紙くずのようにぺしゃんこに潰れていた。そして、瓦礫の山に立つのは、異形のもの…
鬼。
警察から受け取った資料にある名前も、生きていたときの所在も全て伏せ字だ。知る必要が無いし、このものはすでに人間の世界とはかかわりの無い時限に来てしまったのだから、人としての名前や、歴史を持つ意味も無かった。
そして、彼をここにかくまうようになってからもう6年になる。